外資系のサラ忍マン


一般論

偏見

何を考えているか分からない、という意識が働くためだろうか、我々は外国人を目の前にすると構えてしまう。

相手が白人となると、ある種の嫉妬のような感情がわき起こる。

我々は世界の先端に立っているはずなのに、彼らに憧れや劣等感、ときに後ろめたさを感じる。

ローカルコンピテンス

最初から言っておくと、海外から日本に来る場合に限らず、我々が海外で活動する場合も、海外でうまくやる方法は現地のコンピテンスを活かすことに尽きる。

多くの会社がすでにその方針のもとに活動し、成果を納めている。
多くの人がそのことに気付いているし、理解している。

ただ、ほとんどの人はそのことを最初から知っていたわけではない。
なぜなら、誰もそのように教わってこなかったから。

つまるところ、日本で起業する外資の会社の場合、日本人がリードしなければならないし、そのような意思を持つことが我々には必要だ。
彼らのリーダーシップに頼るのではなく、外国人はサブであり、付加価値と考えるべきだ。

拡張世界

スモールワールドを拡張するための最も有効な方法の一つは、外資系の会社に勤めてへこたれないで頑張ることだ。
刺激を受け、吸収し、考える。

好む好まざるに係わらず、外国を理解しないといい仕事はできない。

理想

単純に言って、外資系の会社の日本人社員が日本の会社の日本人社員と100%同じように働くことはできない。
柔軟性、各種制約、図書類、等々。
顧客に理解を求めることは多い。

外資は外資。
ただ、外資に学ぶところは多いし、我々日本人に利益をもたらすことも多い。
だから、商売が成り立つ。

外資系企業は、本社が持つ強みとローカルが持つ強みとが融合したときに最大のパフォーマンスを発揮できる。

彼らのやり方を日本にそのまま持ち込むことはもちろんできないし、彼らのやり方を疑いもせずに踏襲して日本人のよさを犠牲にするのはナンセンスだ。

理想を実現するには困難を伴う。
そこには必ずしも相容れない要素が存在するが、お互いの長所を活かすことに努めれば、そのあり方も見えてくる。

国際化

国際化はもろ刃の剣だ。
今の日本の国際化は、海外への生産拠点の移転という意味合いが強い。

日本人が内向思考から脱却しもっと海外を知らないと、一人一人がもっと広いレベルで海外を知らないと、現状に押し流されるままに負の打算が蔓延し、救いようのない未来に直面することになる。

海外では、日本の知らないところで日本と違うことが起こっている。
孤立よりももっと悪い。
日本が取り残されるかもしれない。

現実は現実として受け入れるとしても、日本人が、日本の社会が、日本の会社がこのままでいいとは思えない。


外国人(中央ヨーロッパ)

日本人との比較において、日本人からみた視点。
もちろん、外国人でも人により異なる。

本社の社員

実は本社の社員は現地法人の我々よりも一層グローバリゼーションの波にさらされている。
彼らは、日本の会社の日本人の立場と同じような状況におかれているのかもしれない。

以前であれば、忠実に会社に勤めて経験を積み重ねれば安泰であった。

同様な仕事を長く勤めるということができた。
経験が何よりものをいった。
仕事の内容は整理されていて、人間の関係は長く密であった。
ポジションよりも、人と人との関係が重要だった。
自分がルールでさえあった。

古き良き時代が懐かしい。
だが、保守と革新の狭間において、新しい時代は来るべくしてやってきた。

ベテランには終息とともに終焉が訪れる。
若手は新しい時代を生き抜くための新しい術を身につけなければならない。

ところで、本社の社員は若くして仕事のできる人材が多い。
概して同年代の日本人と比べてしっかりしており、自立の意識やプロとしての自覚は高い。

アプレンティスシップ(職業高校)

16歳から実務に触れる。
大多数が選択し、残りが進学を選ぶ。
大学出は給料がいいが、頭でっかちで現実知らず、とも言われる。

日本では実質22で大学を卒業してからが実社会へのデビューとなる。
新入社員は社内の教育制度により先輩から手厚く指導される。

制度の違いではあるが、日本式はより大事に育てられるという感じがする。
結果、独立心よりもグループ意識を強く抱くようになるのかもしれない。

一方、彼らは若いころから実社会を経験することで、責任感と自己主張、克己心を育むのかもしれない。

現地法人の外国人

ローカルのコンピテンスを補うため、マネージメントクラスや部署ごとに核となる人材が本社から派遣されてくる。
数年から数年以上の期間滞在し、本社との連携やローカル機能の構築、戦略立案、開拓、顧客との関係強化等々、責任ある立場で業務に当たることになる。

日本に赴任してくる外国人の多くが最初に犯す行為が、リーダーシップという名のもとにコンセンサス(同意形成プロセス)を無視することだ。
一般的な日本人は、彼らが信奉する合理性(必要かどうか、理性的/論理的であるかどうか)やその背景にあるビジネスカルチャーの違いなど知らないわけだから、日本人の考えが良いか悪いかという問題の前に、軋轢が生じてしまう。

彼らは優秀だし実行力もある。
友好的でもある。

ただ、彼らは我々と同じ面を見ているわけではない。
知りうる限られた、そして特定の情報をベースに、彼らの異なるビジネスカルチャーから獲得した思考に基づき物事を判断しようとする。
彼らにとってはそれが正となる。

但し、彼らが間違っているというわけではない。
彼らの視点は日本人が気づかない側面を捉えることができるかもしれないし、彼らの異なる思考は、日本人の閉塞感を打破できるかもしれない。

問題は、観念に束縛されて何が問題なのか見えていない場合だ。
前に進むための何らかの判断をすることは重要だが、それだけではダメだ。

既成概念で話を進め、見えていない部分がいっぱいあるにも関わらず想定で方針を決めてしまい、結果、無駄な仕事を作ったり反感を買ったりするようなケースを見かける。
彼らとしては主張することがコミュニケーションの方法でありそれが当然である(それしかない)と思っていても、立場の異なる日本人と、結果として意図するようなコミュニケーションが図れないという状況が生じるのかもしれない。

短期で成果を求められているとしても、日本のようなエキセントリックに成熟した社会で仕事をする場合には、独自の戦略や問題点の整理の方が、勢いにまかせることよりも重要となってくるに違いない。

ところで我々が本社からの派遣外国人に一番に期待することは、本社とのスムーズなコミュニケーションによる現地価値の最大化だ。
従って彼らには、本社のコンピテンスをローカライズするという期待とともに、日本の現場を知り、我々を知り、彼らが本社の人間と共有しているビジネスカルチャーや技術的背景をベースとして、日本の現実を本社へ正確に伝えてもらうことを期待している。

我々は一方的にこちらの要求を飲んでもらいたいと思っているわけではない。
我々としては決して不条理なことを本社へ要求しているわけではないと思っているが、ときとして本社がどこまで本気なのかがうかがい知れないような状況に遭遇する。

本来、これは派遣社員だけでなく日本を担当する本社の窓口に求められる要素なのだが、外国人とのコミュニケーションの本質的な難しさがここにある。

スーパーバイザー

古くからのならわしとして、機械やプラントの据え付け工事のために本社からSVが派遣される。
今では、その響きに哀愁が漂う。

海外へ出る。
やむを得ず、もしくは自分の意志で。
一年の多くを海外で生活する。
様々な国を訪れる。
特に発展途上国。

ワーカーとは友好を保つ、が一線を画す。
不慣れで不便な生活や食事。
移動の制約。

現地の未熟な労働者を指導しながら仕事を進めなければならない。
弱気ではやっていけない。
妥協するとなめられる。
強引にでもやらないといいものは作れない。

現場では一人だ。
自分で考えて行動しなければならない。
責任がある。
確信を得るまでは信じない。
自分がルールであり、ワーカーは自分の指示に従わなければならない。

そのような生活が、SVのたくましくも頑固で独断的な考え方を育成する。

責任感とプライドと自信。
後で誰にも文句を言わせないように。

自ずと鍛え上げられる。
高い技能と経験。

絶対ではない。

事務処理は苦手かも知れない。
知的労働は好まない。
視野は概して狭い。

彼らは、責任を持って完成させれば顧客は満足するはず、と考える。
仕上げるまでの過程については自分の仕事であり、余計な干渉をせずに黙ってろ、という意識が強い。

従って当然の如く、顧客と業者との間に立つ我々日本人と衝突する。

敬愛すべき人たち。
裏腹がなくシンプル。

対して口や態度ばかりの未熟な若者SV。
ほんの少しの経験で日本へやってくるのは時期尚早。

ところで派遣される全てのSVは日本的な工事の進め方について経験を持っていない。
国により多様性があることを理解しそれに対応することができるタイプのSVもいるが、彼らでさえ日本の現状ではありえないような要求を平気でしてくる。

距離感

外国人は時間の使い方が異なる。
仕事よりもプライベート。

こちらはなんとか理解可能だが向こうはこちらのことが理解できない。
本社の窓口はプロジェクトごとに変わることが多く、担当者が初めて日本を担当するケースが多いというのが理由の一つだが、相手側の事情など二の次というような、あるいは、相手側に配慮するわずらわしさを排除するために、意図的に深入りを避けるような態度、としか理解できないような対応をとられることがある。
配慮するという感覚自体がないのかもしれない。

顧客は日本人であり、矢面に立たされるのは我々だから気が気でない。

例えば、明らかに理解が不十分なまま適当と思えるような回答をする場合がある。
特に専門外で他人に確認しているような場合は顕著だ。

ITにより連絡手段が大きく前進したとはいえ、未だ物理的な距離や時間は、当事者意識の隔たりを埋めることはできない。

発想

一般的にいえば外国人はより主観的に発想する。
(自主自由の発想)
自分の価値観を重視し、日本人のような協調性(自己犠牲的なバランス感覚)については理解しがたいし、そもそも理解することが必要だとは発想しないようだ。

表明したい人々

とにかく、とりあえず言っておきたいらしい。
主張することに意義がある。
言わないと責任を果たしたことにならないと考える。
結果や反省は別にして。

主張

利点を強調するのに熱心で、不利な点について話さない。
日本人的には隠しているような印象を受ける。

主張によるリーダーシップ、あるいは主張の衝突による昇華を原理とする彼らのコミュニケーションスタンスは、ほとんどの日本人に違和感を与える。

プレゼンテーション

遠い日にディベートに対して抱いた違和感と嫌悪感。

主張するのが生活の一部となっている彼らの社会の中では、いかに自分の都合のいい方向に話の論点を導くかということが、生きるための実利を得られるかどうかということと密接に結びついている。
教育がそうさせる。

それだけではないにせよ、プレゼンや演説はうまい。

ヨーロッパの先進国

なぜ彼らは日本人よりも労働時間が総じて短いのに、高い技術力や優位性を確保できるのか?
日本人の働き方が旧態依然で効率が悪いのは明らかだとして、彼らが非常に頭がいい、あるいは教育が非常に優れているとは思えない。

ただ、彼らはヨーロッパの長く困難な歴史の中で練られている。
伝統を守りながらも進取の気勢に富み、固有の技術に磨きをかけて無駄を省き、常に発展・展開しながら競争力を保ち続けている。
合理主義は彼らが歴史から学んだ生き抜くための術なのかもしれない。

日本人に似ているようで、日本人の新しいもの好きの性格とは一線を画しているように思える。

保守、民主、革新

本社にも保守派、民主派、革新派がいる。

保守派は歴史的伝統を尊重する人たち。
民主派はより現場を尊重する人たち。
革新派は時代性に合わせて変化を求める人たち。

人格の問題ではない。

ただ、保守派の考え方は厄介だ。
自分たちが世界を動かし、自分達の周りで世界が回っているかのように考えている人たちがいる。

本社が会社の中心であることに異存はない。
ただ、世界の中心ではない。

彼らは海外子会社のスタッフに対し、まるで宣教師が布教活動を行うかのように、彼らの国(宗教)を知り、彼らの仕事のやり方(教え)を覚えさせることが、最も会社(宗派)に利すると考えている。
研修で本社へ派遣されたスタッフが、彼らの言葉を覚え、文化や歴史を知り、会社のポリシーや慣習を身にまとい、それを自分たちの国へ持ち帰って実践することが最善であると考えている。
もちろん、彼らのサクセスストーリーをグローバルに展開するという期待感がベースにあるだろうし、本社として統治に都合がいいように仕向けたいのが実情だろうが。

日本の会社にも同じような考え方がある。
日本通を育てる、日本の企業文化を海外へ輸出する、等々。

かつてはそれでよかったのかもしれない。
反抗する出先機関の一つが騒いだところで体制に大きな影響はない。

グローバル化が会社の経営へ大きな変化を要求する現在では、それぞれの消費地のビジネス文化や慣習に対する理解と対処なくしてはビジネスの発展が望めないということを、マネージメントは明確に意思表示している。

ところで、日本の会社が海外展開において現地との共通言語を日本語にしようとする限り、多分、うまくいかない。

ホテル理論

ホテルでのクレームについて。

ホテルの部屋で設備に不備があれば、外国人は当然のこととしてフロントへクレームをつけるらしい。
日本人も我慢せず、それが普通と認識して振舞うように、と海外旅行のガイドブックによく書かれている。

だが、日本では、ホテル(支払の代わりに提供される商品、サービス)の品質が確保されているのは当たり前のことであり、ホテルは努力して問題がないように(問題のない製品、サービス)しておくのが当然(そうでないと淘汰される)なので、日本人はそのようなトラブルに慣れておらず対処法も心得ていない。
むしろ未知の災難に巻き込まれないように我慢する。
そして、後で仲間内で不備を肴にして盛り上がり、海外なのでしょうがないなと納得する。

外国人は、問題があることが有り得るものとして考え、問題があれば是正処置を促したり行動するという論理を展開する。

改善活動

日本人的には、会社への貢献のためにみんなが協力して全体を良くしようと努める。
外国人的には、他人のあらさがし、あるいは自分が批判されているようで、協力的になれないのかもしれない。


グローバリゼーション

国際規格とのズレ

規制という名の保護主義

JIS規格と国際規格(ISO/IEC規格)との整合化は、1995年1月にWTO/TBT協定(貿易の技術的障害に関する協定)が発効されるとともに本格化した。

どの国にもその国独自の規格があるものだが、それらの多くはその国における必然性という面とともに、外国から見れば参入障壁という側面がある。

制度というのは、制定当時はそれで良かったかもしれないが、社会状況の変化に対して常に遅れて変化するという特徴がある。
今、日本では貿易障壁として外圧により国際化が進められている。

整合性は、単に規格のズレを整合させればいいというわけではない。

例えば、安全に対する考え方などは、如何にこの整合化の問題が根深いものであり関係者の誤解を導き易いものであるかということを物語っている。

IECでは、「人は過ちを犯し、機械は故障する」ものとしてとらえる。
そして、「作業者への安全教育の強化や規制等の強化のみでは機械災害は防げない」とする。

一方、日本では、法規や指針に基づき安全教育をしっかりと実施して防護具を適切に使用すれば安全が確保されるという雰囲気がある。
(いや、あった、あるいは、それが責任区分のあり方となっている。)

背景として、欧米では人権に対する意識が高い一方、海外から未熟な労働者が流入してくるという事情がある。
相対し日本では、労働者への安全教育体制がしっかりと確立されている上、安全対策に取り組む組織や時間の掛けようが半端なく、それが一つの産業としても成り立っているという状況があり、安全は教育により担保されるという意識が強い。

ヨーロッパでは、安全に対する取り組みは新しい段階に入っている。
「ヒューマンエラーは必ず起こる、機械はいつか故障するもの」という前提のもと、設計の段階から機械の安全性をリスク評価して合理的に対策を実施するというのが、現在の安全対策の手法になっている。
この点で、日本の安全対策に対する自負心などは、一歩遅れたものであるという感が否めない。

ヨーロッパには、過去の歴史から引き継ぐ伝統や文化とは別に、新しい技術や知識をその時代の状況や変化に応じて合理的に運用するという考え方がある。
これが欧米における合理主義であり、日本の因習的な制度や、慣習や慣行を重視する姿勢とはなかなか相容れないところがある。
いわゆるカルチャーギャップだ。

国際規格に合致しない独自規格は、必然として認められてきた。
歴史/文化的な背景の相違や独特の商習慣、特殊性、マーケットや消費者の要求の違い。
技術開発力やレベルの維持、独立性(従属でない)や差別化。

その一方で重複、しかも旧態依然。
雇用の維持が目的となっているような在りよう。

グローバル化における基礎部分の標準化。
それは小手先の標準化争いとは根本的に相違する。

世界最大の経済大国アメリカの独自路線とヨーロッパ連合によるグルーバル化路線。

世界屈指の経済大国、日本。
とはいえ、もはや日本は独自に発展できるほど強国ではなく、世界の中での相対的地位は間違いなく今までよりも低下していく。

国際規格への整合化は既に始まった未来の一つだ。
なのにそれを運用する人間が未だ未来を見ようとせず、グローバル化の流れに身を任せ衰退の支流へと運ばれていく。

時代の先取り

我々の会社においても、品質に関しての危惧は遅くとも1990年代から誰ともなく指摘していた。
この時期は、(本社の)若者が海外に出たがらないという嘆きが聞こえてきた時期でもあった。

システム化の反動なのだろうか。
最近は届かない声に黙る人も多い。

海外展開に優れた企業であっても、別次元のグローバル化が進行していた時代だった。
本社はグローバルマーケットにおいて常にグローバルな競争にさらされている。
日本のように閉じられた世界だけを見ているわけではない。

本社従業員の削減、ヘッドカウントの目標設定。
背景には、標準化の推進、基幹システムの導入、製造ラインの見直し、リードタイムにわたる生産の見える化、製造拠点の分散、MtoM/CtoCの再構築、ITの強化、ローカリゼーション。

時代の変化に対応するための投資と迅速な戦略。
技術の強化と拡大、マーケットへの浸透、そして事業の創造。

キャッシュフロー重視の経営に軸足を移した本社は、数字で計れる経営資源や戦略的な評価指標の監視を強化し、グローバル化の流れの中で発展市場の開拓と展開に、より照準を定める。

日本の近現代

日本は開国当時、お雇い外国人の指導のもとに国内産業の育成を進めた。

技術レベル、開発力、品質、生産性の向上をベースに、安い労働力による低価格の製品を海外へ輸出し、国内産業は潤う。

為替レートが切り上がると、高付加価値の製品は国内生産を何とか維持するものの、低付加価値製品については海外生産へ移管していく。

やがて海外の企業が力を増し、安い労働力による低価格の製品と競合するなか、高付加価値品についても海外の現地生産を余儀なくされ国内製造業は益々衰退する。
特に下請けに頼る中小は企業努力も限界に達し、生産設備の老朽化や労働者の高コスト体質により、海外からの輸入製品に価格の点で到底太刀打ちできない。

国は価値創造経済への転換に向けて構造改革を試みる。
国内産業の育成や、クリエイティブ産業の創出、中小企業の潜在力発揮がその柱となる。

本格化するアジアの発展が更に進めば円高はいずれ是正されると思われるが、それは日本の衰退が決定的になったことを意味する。
少子高齢化が進み、負の遺産を処理できずに国力が借金で支えられる中、日本経済の先行きは厳しい。

現在の状況に至ることが必然であったとしても、グローバルな展開において負債を重ねながら対症療法的な対応しかとれなかった今の現状に対し、閉塞感を抱くしかない。

参入障壁

外資系の会社から製品を購入する場合、それが高い技術的優位性やコスト優位性を持っていても、日本の顧客はどうしても最初は躊躇する。
従って、実績がものをいう。

特に、知らないものに対する抵抗感は強い。
ときに重視されるのがデファクトスタンダード、国内でのみ通用する規格や基準。
JISに詳しくても、国際基準や国際情勢に関心はない。
戦略としての参入妨害や輸入規制。

一方、既得権益に保護された旧態依然の団体では、自らの体制において変革の力を内部に持つことはない。
そのような仕組みがない。
リスクを取るのは自分たちではなく、サプライヤーの役割だ。
知ってか知らずか、利口であることが評価され、問題を起こさないように努めることが第一義の社会においては、既定路線からの逸脱は暴挙なのだろう。
産業人を装ってはいるが、実はそうではない。

特に、分配された予算を消化する仕組みの組織においては、ある種の反動、あるいは社会貢献のつもりなのか、責任が自分に及ばないという前提の上で、実用を度外視した施策を試みようとする。

それらは一部の人間を満足させたとしても、日本の産業、ひいては一般消費者のためになるものではない。
海外との比較において顕著な製造コストの高止まりは、国際競争力の劣化だけでなく、日本の製造業の非効率生産体質の行き詰りを物語っている。

プレゼン能力

例えば、今では当たり前のように必要とされるプレゼン能力。

かっては、個人の能力の一部分にすぎなかった。
その能力事態が差別化の主体ではなかったし、それが得意な人がいると助かるといったような、組織の中での付随的な役割だった。

それが、欧米化の風潮の中、必須の能力であるかのように扱われる。
欧米では、それに見合った社会システムの土台の上に展開したものが、日本は、部分的に他文化を、根のないまま取り入れてしまうようなところがある。

日本的組織の解体の助長。
組織的な強みを弱体化しても、そこに新たな強みは見いだせない。

英語力

よく言われるように、日本人は学校教育によってせっかく英語を長い間勉強しているのに、総じて英語によるコミュニケーション能力が他の諸外国と比べて弱い。
理由は、大部分の日本人は国内マーケットで仕事をしていればよく、その中では英語がほとんど必要ないということにある。

一方、我々現地法人の日本人には英語が必要であり、英語能力が低ければそれはハンディー以外のなにものでもない。

英語力がなければ世界を知ることも難しい。
日本人がどれほど内向きなのかということを、ほとんどの日本人は知る機会が少ない。

ところで英語ができればいいというものでもない。
英語の前に、コンピテンスを磨いておかなければ仕事にならない。

アジアの国々

後から発展する分、前例に倣えば成長期間を短縮できる。
先進国からどんどん工場進出してくるので、自然と技術を習得する機会が増え、ワーカーの技能は向上する。

新しい工場を、新しいインダストリアルエリアへ、新しい技術や新しいシステムを導入して建設する。
政府も後押しする。

ワーカーのコストは断然、日本よりも安い。
教育水準も上がり、労働意欲も高い。

製作された製品は、日本などの先進国へ輸出する。
当然、日本の同種のサプライヤーよりも安く供給できる。

日本の製造業は、このような状況に直面している。

ローカリゼーション

郷に入れば郷に従えのとおり、その国の文化や商習慣に基づかないと、マーケットへの参入はたやすくない。
一方、取引に関わる新しい試みがドラスティックにマーケットを変化させたり、イノベーションがマーケットに革新をもたらせたりする。
マーケットは常に流動的であり、マーケットを創造することも企業に求められている。

外資としては、技術的な差別化の一方で、流通経路やサービス拠点の確保、また、保護貿易、参入障壁といったものを乗り越える必要がある。

経済レベルや発展度合い、産業の発達の程度などは、国によってかなりばらつきがある。
高付加価値の製品や技術に対しては、コピーや技術流出といったような副作用が生じやすい。

そんな背景の中、国際化が進められる。
当然のこととして、企業は一つの命題にぶつかる。
どこまでローカリゼーションを認め、それをどのように制御するか?

ローカライズすればするほど、中央からの統治は難しくなる。
ローカライズしなければ、現地の声が反映されにくく、スピード感に劣る。

世界最大の潜在マーケットである中国について言えば、そこでの出遅れはグローバル化において致命的となりうる。
中国はその規模の力を知っている。

中国は先端技術では先進国に劣るものの、文化的には深く長い歴史を持った国だ。
他国の文化や商習慣を押し付けようとしても決してうまくいかない。

中国においてより自治権が認められる傾向があるのは、そのような背景が影響している。
日本に対しては、そんなことはなかった。

但し、ローカリゼーションを進めたとしても、KPI等の指標の共有化や、管理手法の透明化と適切な運営がなされなければグローバルに経営を監視することができない。
従って、ツールの標準化やガイドライン化が進められ、その徹底が要求される。
それはどの国に対しても同じだ。


ビジネスカルチャー

ベンツを売る

ベンツを扱っているわけではないが、一部の外国人(特に古くからいる人)は我々の仕事を車の販売に例える場合がある。

そこで彼らが言いたいのは、メーカーが供給する車という商品を顧客は購入するわけで、メーカーは顧客が車を使用する際のパフォーマンスや仕様に対して責任を持ち、顧客もそれを期待しているが、顧客が車に使われている部品に対して細々と要求するのはおかしい、というもの。
この考え方は、単品機械だけでなくプラントビジネスにも適用される。

実際問題として、単品機械の場合はまだしも、生産ラインやプラントの場合にこのような考え方がすんなり顧客に受け入れられるケースは少ない。

技術的なことが何も分らない相手と商売をしているわけではない。
我々の顧客は一般消費者ではなく産業人だ。
(日本は技術レベルに劣る発展途上国ではない)
特にカスタマイズの要求に対し、もしくは現地対応に関して、これでは日本の顧客と折り合いをつけることができない。

やらなければならない仕事以外に、こんな煩わしさと手間に時間がとられる。

外国人相手の場合、相手がこちらの意図を正確に理解しているかどうかの確認のプロセスが必要となる。
いつもお互いが同じバックグラウンドで仕事をしているわけではない。
技術的な知識は共有できても、経験が異なればアプローチも異なる。

我々は長年、本社の外国人と付き合っているので彼らの考え方や境遇も多少なり理解できる。
一方、彼らは世界中の国で仕事をしていて日本について特に詳しいというわけではない。

明らかに異なるビジネスカルチャーに遭遇した場合でも、彼らは自分のやり方を押し通そうとする傾向がある。
彼らは相手のカルチャーに興味があるわけでも、それに合わせて仕事をしようという意思があるわけでもない。

迎合を求めているわけではない。
ただ、いい仕事というのは、製品だけでなくサービスに対しても期待されている。

実現可能な計画を立てないといけない。
一方的な主張では顧客の満足は得られない。
車を売っている訳ではない。

日本語の外国語フレーズ

Customer is a God. (Customer is a King)
日本ではお客様は神様のように扱われる傾向がある。

Japanese mentality.
欧米とは異なる。
ローカルのメンタリティーを尊重しないとうまくやっていけない。

[アイランヅック](書き言葉なし)
なんてこった。

Perfect
本社の人間が使う場合、何らかのトラブルが発生するもののそれは許容できるものであり、許容するのが当然という前提。

Christmas、Summer holidays
全世界であると思っている。
グローバルな会社のはずなのに、ヨーロッパ中心文化から抜けきれない。

Quiet means agreed.
質問をしない日本人は、彼らからすると当たり前ではない。

島国

一般的な日本人は、日本的な仕事の進め方が全てであり絶対だと思っている。
海外のサプライヤーに対しても、日本人のやり方を真似るべきだと思っている。
それでいて海外から直接何かを買ったり、外国人と接する機会はまれにしかない。

仕事の仕方は新入社員の頃から社内で教育され疑いもせず身についていく。
強い日本が築き上げた世界で勝つための社内教育。

メイドインジャパンは高品質の代名詞であり、必要なほとんどの機器や資材は国内に流通する商品の中から選択することができる。

社員は優秀で責任感にあふれている。
アジア唯一の先進国として世界の先端を歩むという気概と誇りを胸に抱く。

但し、それは日本という島国の中での話だ。

我々は世界を知っているようで知らない。
世界は日本のことをほとんど知らない。

本社時間

本社へトレーニング等で長期出張(一年とか)する場合、本社時間というのがあって、それに染まってしまうと帰ってきてから役に立たないという言い伝えがある。
日本人のようにあくせくと働くことに疑問を感じるのは致し方ない。

協調

和の精神が尊ばれるように、日本の社会には協調して仕事をすることが前提の如く受け入れられている部分がある。
よく対比されるのは、欧米の契約社会。

例えば、Front End Engineering Design は日本では無償で協力するような雰囲気がある。

良いものを作るために、共同して作業に当たる。
契約後に細部を協議しながら最終仕様を決定する。
詳細設計や工事において追加コストが発生しても、ある程度まで請負業者が吸収する。

お客様は神様。
責任施工。
顧客は、供給されるものに対して専門家ではない/未経験なので、供給業者が気を利かせなければならない。

背景には競争の厳しいマーケット事情。
お互いに友好的な関係を築きたいという長期的な視点。

それらが協調性という枠組みの中で我々のビジネスと切っても切れない関係にある。


狭間でもがく人々

現地法人の日本人

つまり我々。

情報の共有に制限があった時代、日本法人は文字通り出張所のようなものだった。

そこで働く日本人は、本社の指導に従い、意向に従いながらも、直面する状況に対して自分なりに考えて結果を出さなければならなかった。

即戦力でなければ採用しない。
即戦力を前提に採用する以上、結果が伴わなければアウト。

とにかく会社として結果を出す必要があった。
売上と利益だけが発言力の源だった。

中途採用。
日本の会社に馴染めない者たちが集ったかのような集団。
独善がまかり通っていた。
既得権益。
獲得した知識は自分だけのもの。

入れ替わりも激しい。
自己責任がベースにあり、耐えられない者は去っていく。
会社に長く勤める条件は、外国人の友達になるか、結果で示すかのどちらかのような雰囲気があった。

外国人は、コミュニケーションギャップが障害になって日本人の能力を評価することが難しい。
彼らは、主張しない人間を理解することができないので、とにかく頼れる人材に目が行く傾向がある。

個性豊かな社員はくせがあって刺激的であり、みんな泥臭く生きていた。
外国人から学ぶことは多かった。

縦割り、場当たり的、商社の活用。
競争力に優れた機械。
日本経済が発展し古き良き時代だったころ、リスクを最小限にして売れるものを売った。
横柄でも売れたらしい。

一方で、新しいことを試みて失敗する。
成功するカギはやはり人材にある。

本社から入手できる情報は制限され、本社の対応は日本の会社のようにきめ細かくもない。
現地法人と本社との関係は、いわば暗黙の不平等条約のようなもので、板挟みとなる現地社員の気苦労は大きかった。

良心的であろうとすればするほど辛酸をなめるような、不条理にさいなまれながらわけも分からず前に進まなければならないような、そんなトンネルを歩いているような時代を経て、会社は徐々に変わっていった。

本社の新たなグローバル戦略。
情報の共有とローカルリソースの活用。
ITを最大限に利用し、グローバルでの標準化を推し進める。

徐々に透明化が進行し、古くからの独善は退場を余儀なくされる。
角の立つ社員も会社を去って行った。
反動からか新しく人を採用するにつれ、会社が段々とおとなしくなっていく。

ローカリゼーションが進められる中、ヴィジョンがより体感され、会社組織の体裁も安定し組織力を発揮できる環境が整っていく。
しかし、局所的なねじれは依然残っている。
新たな局面にも対応しなければならない。
会社は常に新たなチャレンジに挑みつづける宿命にある。

離職率

外資系の会社へ中途で入った人の早期離職率が高い理由の一つは、いきなり責任と仕事をまかされ、事情も分からず不十分なサポートの下で納得のいく仕事ができないという経験をしてしまうことにある。
これは外資系の宿命とも言え、みんなある程度経験する。

即戦力

海外に子会社を作る場合は、大抵、本社から幹部を派遣し、現地で即戦力になる人材を採用する。

しかし、採用するのは同種の機械や業務について経験のある人材であって、その会社の機械や仕事に精通している人材などは基本的にいない。
従って、即戦力になりそうな人材、を採用することになる。

同種の機械や業務の内容を知っていたとしても、外資系の独特な企業風土やビジネスカルチャー、仕事の手順について知っていなければ、入った人は必ず当惑する。
会社の規模によっても、働き方は違ってくる。

その中で、即戦力になるように成果を求められる。
しかも、あるいはそうであるから、自己責任という言葉がプレッシャーとなる。

これらは、即戦力を期待しすぎるという短期的視点による弊害ともいえる。

それぞれの立場

我々は、社員として会社に要求する。
我々にとって理想的であることを。

期待する、我々の思いが伝わることを。
しかし、会社としてそれが正しいことかどうかは我々には分からない。

要求に対する回答は、結果でしか得られない。

合理主義的な経営手法は、外資であればある程度やむを得ない。

自己主張

現実には声の小さな者(力の弱い者、経験/知識の劣る者、恐れる者)は、声の大きな者の意見(それが正しいかどうかは別として)に従う傾向にある。
まして英語で自己主張するとなるとますます声の小さな者は追いやられてしまう。

主張しなければ認められないとしても、自己主張する者の意見が常に正しいというわけではない。
不十分な情報しか持っていなくても、主張する人はとにかく主張する。

ときには攻撃的に。
日本人は引いてしまう。
これでは建設的な議論はできない。

強く主張する者の意見が常に認められるのであれば、それは現実としてはアンバランスであり正しい選択とはいえない。
ただ、主張なくして実行はない。
判断して進むことが、ビジネスで求められているのも確かだ。

ところで、主張した者とそれを支持した者がその行動に対して責任を持たなければならないというのは基本前提のようなものだが、現実社会においてはいつもそうなるわけではない。
少なくとも外面的に。
だから世の中は一見平和に見えて不満が渦巻く。

主張しない人々

主張しないことによる弊害も大きい。
黙っていても相手が状況を察してくれる、あるいはいっしょに働いているのであるから当然同じ考え方を共有している、と考えるのは危険。

後から主張してくる人もいる。
聞いていないから自分は関係ないという人。
どうしていつも急になって連絡してくるのかと怒る人。

追加の仕事

外資系のメーカーが日本で商売をする上で、当然ではあるが、輸入する機械の技術や性能に関する専門知識、取り扱い、保守等の業務上の遂行能力を有する必要がある。

日本のメーカーが製造する製品と競合することになるが、我々の業務には日本のメーカーであれば必要のないようなコストが多く発生する。
そのコストを加味した上で、エンドユーザーに利益をもたらさなければならない。

例えば、
輸送コスト、関税(機械の場合はゼロ)、本社の人間の派遣費用、翻訳や通訳、英語のメールやレポート類の作成、カルチャーギャップを解消するための手間。
設計を日本向けに作り直すなど、オーバーラップや二重作業になってしまう作業もある。

一つの書類やコレポンを作るにも手間と時間がかかるのだから、相手に伝わるように、やり直しがないように作成しなければいけない。
(勘違いは手間ばかり増える)

例えば、お客さんとの打ち合わせ覚書について、社内の特定の人間用に英語、顧客用に日本語と分けるのは作業効率や生産性の上がらない話だ。
日本人が信頼されているというのが前提であるが、外国人に関わりのないことは日本語だけで良しとすべき。

サンドイッチ

本社のコンピテンシーが我々の生命線となる場面が多々あるが、日本人の顧客と本社の外国人との間には常にコミュニケーションギャップが存在する。
お客さんとは日本語で対応するのが一般的なので、コミュニケーション上の通訳や翻訳は日本人社員の役目となる。

間に挟まれる形の日本人には、二重苦がのしかかる。
お客さんは日本の会社ではありえないと言い、本社の人間はそんな要求には対応できないと言う。

お客さんの主張は典型的日本的なものなのでよく理解できる。
最もだと思う。
では、本社の対応が不十分なのか?

本社に顧客の要求を、我々が置かれている状況とともに伝えても、実効性のある回答が得られるとは限らない。
当たり障りのない回答や、感情的な対応が帰ってくる場合もある。

彼らは、みんな忙しい中、できることはやっていると主張する。

日本人が正しいのか、外国人が正しいのか?
なぜ度重なる改善要求に対応してくれないのか?
火中の栗を拾うその動機付けは?
両方から不満が湧き上がる中、いかに顧客を満足させ会社の不利益にならないように仕事をまとめるか?

現実問題として、やらなければ顧客が納得しないという状況がある。
本社がやらないとすれば、現地の日本人が対応するしかない。

ある程度はそうするしかなく、そうすべきところもある。
顧客の近くにいるのは我々だ。

(言葉の問題もあるが日本人的な特徴なのだろう、顧客が面と向かって外国人に対して文句を言う場面を見たことがない。
外国人の感情を害するような言動を敢えて控え、友好的でありたいという感じがありありと伝わる。
その反動もあってか、間に立つ我々が厳しくお叱りを受ける。)

顧客からすれば、機械のブランドネームやヨーロッパの先進国となれば、日本と同じような品質や応対が得られるものと期待する。
コンペティターと比べられると、我々も簡単には引き下がれない。

但し、出来ることもあるし、出来ないこともある。
会社としての一貫性、製品としての信頼性、競争力、コスト、アフターサービスなど、留意すべき点は多い。

何より、日本で発生する作業が手直し的なものである限りコストアップの要因となる。
それは結果的に競争力の弱体化につながる。
顧客のためにもならない。

このようなトラブルを誰もが経験する。
我々は顧客の前面に立つ。
逃げるわけにはいかない。
メンタリティーやワークスタイルと関係するこの種の問題には、常に多くの労力が費やされる。

最初は分からなかったが、経験を積み知識が増えてくるにつれ、背後に相矛盾する企業文化があることが分かってきた。
今では本社の言い分もある程度理解できるが、同時に会社の問題点も見えてきた。

その差異や意識の違いは一朝一夕で縮まるものではないし、互いに理解しあうことさえ困難なものだ。
更に、理解しても、受け入れられるかどうかは別の話となる。

ただ、なぜ行き違いや見解の相違が生まれるのかを知れば、少なくとも余計なことに悩まずに前向きになることはできる。
「紐解く」を参照。)

クレイム処理

トラブルに対してのレポートや、再発防止のための改善策の要求に対して本社の対応は概して鈍くて悪い。
本社からすれば、結果的に対処しているのだから面倒な話にはしたくない、と考えるのかもしれない。
ネガティブなレポートを提出してしまうと、その内容を認めてしまうことになる。

日本のユーザーからすれば、自らの改善活動の一環としてサプライヤーに改善を求めるのは当然であり、メーカーを育てるという意味合いの教育的なパートナー意識の表れ、あるいはそのような活動を記録する上での社内手続上の必要性といった理由がある。
本社の購買部門にも似たような戦略があるはずだ。

十分にこちらの意図が伝わらないケースもあるだろうが、矢面に立たされている我々からすると責任逃れとも思える反応を返される場合がある。
「なぜそこまでやらなければならないの?」、「それは自分の仕事ではない」といった思いが見え隠れしている。
こちらの問題をあちらでは問題として認識されていないということが、不幸な状況を招く。
温度差がある。

繰り返される事象

箱を開けてびっくり。
部品の不足、穴位置のずれ、サイズの食い違い、水漏れ、錆、要求の未反映。。。
改善を要求しても、反映されることなくまた同じ状態で出荷される。
現地対応で追加コストが発生する。
顧客には叱られ、あきれられる。
モチベーションは下がる。
なぜこんなプアーな間違いが繰り返されるのか?

派遣される本社SVとのトラブル。
相変わらず空気を読まず強引な要求をしてくる。
ローカルのやり方に従わない。
自分のルールで行動する。
説明をしない。
派遣費はバカにならない。
通訳のために現地社員が拘束される。
結果が伴わなければ必要ない。

顧客第一といいながら、なぜこうも対応が遅くて悪いのか。
ビジネスとしてどこかで折り合いをつけなければならないとしても、我々日本人の感覚とはズレている。

日本人がいる理由

外資が日本で商売をするにあたって、日本人の存在意義とは。

例えば、本社の人間が日本語の通訳とだけで仕事をしようとしても、決してうまくいかない。

我々は商社でもない。

我々に本社が必要なのは明確だが、なぜ日本人が必要なのかを、みんなが理解しなければならない。
言うまでもなく、我々は日本の商習慣や日本の顧客について知っている。
我々にとって日本の顧客を理解することは難しいことではない。

本社の人間は、現地人の役割を度外視してはならない。

日本人への評価

外国人の日本人に対する評価には疑問を感じる場合が多い。
分かりやすい者、明確に意見を述べる者、リーダーシップを発揮する者、フレンドリーな者に対して高評価を与えるのはよく分かるが、いわゆる外国人受けしない者の評価において、伝わらないこと自体が評価の基準になってしまっているように感じる。

分かる人には分かる、そんな行為が無評価もしくは誤解されている状況が認められる。
多かれ少なかれそういったことは日本人にも見られるが、外国人に日本人を評価することはできない、という意見の理由がここにあると思う。

もちろん、外国人の我々に対する見方や立場は我々とは異なる。

期日

期日に対する認識の差。
日本人は期日に対する受け止め方がシビア。

グローバルになればなるほどスケジュールの管理が大変になることは分かるが、本社の担当者に対し、事務的な仕事に終始してポイントを押さえられていない、という印象が否めない。
一方的通知から透けて見えるのは、当事者意識の希薄と自分の責任ではないというステートメント。

スケジュール上の直接の問題の他に、遅延があった場合に第三者(顧客、業者、あるいは現地日本人社員)へ与える印象や信頼関係に係わる認識が本社の担当者には届いていない。

他社との比較

日本人社員は、社外の関係者(顧客、サプライヤー)から、国内の他社社員と常に比較される対象であるという現実。
(本社社員はこの限りではない)

他社と同等もしくはそれ以上のサービス(付加価値)を顧客に提供するという志は、社員としての矜持にもかかわる重要なテーマであるが、現実はなかなか厳しい。


紐解く

グローバル企業

まず、世界中の様々な顧客を相手にし、様々な国で活動をする会社であれば、日本で日本の顧客のみを相手にする日本の会社とは異なる顔を持つ。

日本では、発展している業界でもなければ顧客の顔ぶれは大きく変わらない。
会社や担当者により多様性があったとしても、大よそ傾向はつかめる。

対して、多種多様な顧客と取引する場合のリスク。
現地のコンピテンスを頼りにしても、例外を極力排除しながら総合的に判断することになる。

今でこそグローバルに製造拠点を展開しエリアに密着したサービスを志向しているが、振り返れば、高品質/高性能な機械をヨーロッパで製造し、世界中へ輸出するというビジネスモデルから発展した会社だった。

グローバル化とともにコストの優位性を背景にして追随メーカーが台頭してくる中、廉価版の機械をマーケットの近くで製造するというビジネスモデルを併用するに至る。
日本でも、顧客の要望に応じて徐々に廉価版の機械の輸入が始まってきた。

コスト競争の流れの中、従来の伝統的な品質管理手法が徐々に変化する。
それは、量的拡大と実利の追求をコンセプトにしたかのようなものであり、我々からすれば劣化であった。

中央集権的な管理手法は徐々にほころびが見え始め、必然のようにローカリゼーション、現地拠点の強化が進展する。

但し、それはITの進歩と歩みを一にした、コントロール可能な範囲においてのものだ。

経営の方針を決定するのは、依然、本社であり、ビジネスの路線は、当然のことながら売上高と将来展望に大きく依存する。
我々は、その延長線において活動せざるを得ないという足枷をはめられている。

成熟した国、日本。
我々の要求は多分、かなり厚かましい。

グローバルスタンダード

グローバルスタンダードにより透明性や融通性が向上する。
コミュニケーションが円滑となり、変化への対応やトレーニングによる改善がより効果的になる。
何より、管理がシンプルになり効率的になる。

但し、やみくもに従えばいいというものでもない。
現地の事情、環境や文化の相違をどこかで吸収しないといけない。

例えば、標準品を販売するという考え方。
日本の顧客はカスタマイズ製品に慣れている。
それが高価な産業機械であれば、契約後でも仕様を協議しながらカスタマイズして最終仕様を決定し、製造へ移行するというような考え方を顧客は持っている。

我々の標準は、顧客の標準ではない。
何が対応できるかを含めて、契約後までに出来るだけ仕様を詰めておく必要がある。

特に、そんな会社と付き合った経験のない顧客、担当者へは、契約前に前もって十分な説明をしておく必要がある。

派遣問題、仕事の進め方の相違、品質問題、カスタマイズと標準化、言語、法令/規格、等々。
色々ある。

アプローチに明確なルールがあるわけではない。
その部分は、現地の組織やスタッフそれぞれの能力と裁量に任せるしかない。

製作

組織間の連携という言葉に集約されるが、大きな組織や保守的な組織はそれが不得意だ。

製作品の品質が悪いのは製作する側の組織が悪いのであって、販売する側ではない、となる。
一方、製作する側が、自分たちの仕事は十分である、と考えていれば、改善がなされる余地は小さい。
彼らは彼らで、標準化、効率化、稼働率や生産性の向上、コストダウンなどのプレッシャーを受けている。

個々の組織ごとに優先順位を設定して最適を追求しても、全体としての改善につながるとは限らない。

ところで、納入後に現地で多少の改造が可能という前提に立つためか、出荷時の品質管理に関して日本のような厳密さは見られない。
標準品にオプションというような設定であること、ほとんどが量販機であるということから、出荷前に顧客を含めた立会検査を設けるようなケースはほとんどない。
海外で場所が離れていることから、立ち会うにも制限がある。

エンジニアリング的には、要求仕様が反映されているかどうかを個別の組立図面で確認するという工程がないため、どうしても確実性の点で後れを取る。
本来、標準品とオプションの組み合わせであればそれを指定すればいいはずだが、多少複雑になってくると製作サイドとの認識のずれが生じる可能性が増大する。
間違いは確率の問題であり、要求仕様を出した者でない限りフォローしようがない。

製造仕様書なるものがあるが、それが本国語で書かれている以上、チェックに支障を伴う。
これは古くからの慣習の残存(いわく、工場の労働者が本国語しか解せない)であるが、訓練され、経験を積んだ、本国語を理解するエンジニアでなければこのチェックシステムを完全に使いこなせないような状況にある。
海外子会社の人間に排他的に映ってしまうのも仕方ない。

ITのプラットフォーム共通化に伴い、ようやく最近は図面を入手しやすくなった。
少し前までは本社の人間に頼まざるを得ず、そうすると向うからは色々と訝しがられたり詮索されたりする。
何より、お互いに手間であった。

製造システムが高度に標準化されるということは、効率化の反面、それだけ事務的になってくるという面もある。
以前であれば職人レベルの担当者が目を光らせていたが、経験のない人間はあり得ないようなミスをする。

実際問題として、ときどき出来の悪い機械が納入される。
特に多少のカスタマイズ要求をした場合は、それが反映されているかどうかは箱を開けてみないとわからない。
図面通りでない、設計変更が事前に知らされていなかったといったようなことも、このときに判明する。

また、経験のあるSVなら最初からわかっているのだろうが、付属品などは現地で加工してから取り付けるようなケースも多い。
それを知らないと、未加工の品物を顧客へ納入するようなことにもなってしまう。

製品を知らなければ、取り扱いも後手に回る。
クリティカルな場合は何らかの特別な対応がその都度必要になる。

プラントエンジニアリング

Ref.サラ忍マン進化論/プラントエンジニアリング
Ref.サラ忍マン進化論/メーカー展開のエンジニアリング

プラントエンジニアリングの点からいうと、我々の会社はメーカーから展開してきたという経歴を持つ。
専業のプラントエンジニアリング会社とは異なり、生産機械やプロセスをその重心に据える。
仕事の進め方や考え方も、ゆえに異なってくる。

まず、機械という核となる商品を持っている。
そして、製造ラインも機械と同じように一つの商品として考える。
なにより、顧客からの信頼を得るために、納入する最終製品の品質やパフォーマンスに対して高い責任意識を持っている。

ここで、本社の人間は、顧客が期待するのは意図した製品を生産するために必要な設備と性能であるから、我々が納入する製品の最終品質に納得してもらえればいい、と考える傾向がある。
つまり、機器納入後、顧客の工場における工事や試運転を最後の仕上げ(最終加工や手直しを含め)の過程と考え、試運転を終えて引き渡しのときに最終的に満足してもらうことが最も重要だと考えている。
顧客の本分は我々の機械を製造に供することによって得られる製品や利得にあるわけで、運用することの方がずっと重要で、ずっと長く続くのだから。

一方、日本人は、機械を納入する前に問題の芽を顕在化させ対処することは利益であり、納入後に何か手直しが発生することは恥である、と考える向きがある。
つまり、準備を万端にしておき、できることは出荷前に済ませ、現地工事はすべて予定通り速やかに進めることが何より重要と考える。
そこには職人の美学とともに、工事現場で予定外のトラブルが発生することは工期およびコストの点でリスクを高めるという現実的な背景がある。

責任を持って仕事をすることに関しては、日本人でも外国人でも大きく変わらない。
ただ、その表現が異なる。

立ち位置

我々の持つキーテクノロジー(機械、プロセス、制御、等々)を最大限に活かすことが、顧客の最大の利益へとつながる。
そのためのプラントエンジニアリングを実行することに意義があり、そこに我々のプロジェクトエンジニアリング能力が活かされてくる。

プラントの建設において最もリスクの少ない方法として、プラントの設計を本社の人間が行い、機械や機器をヨーロッパで製造もしくは調達し、それら一式をまとめて顧客の工場へ輸出し、SVを派遣して、顧客が手配した業者が組み立てを行うというパターンが考えられる。

日本のプラント会社はターンキーベースのプロジェクトで果敢に海外へ打って出たが、メーカーの視点からすると、リスクの最小化、制御できるリスクへの専念を第一に考える。
プラントの建設工事を自社で行うとなると、地政学的リスクへの対策や、現地におけるプラント建設に関するノウハウが必須となる。
現地の会社と組むことになるが、そこまでのリスクを取る必要があるかないか、あるいは取れるか取れないか?

工事自体に多くの付加価値を見出すことはできない。
高度な施工技術が必要なわけではなく、利益率も低くなる。
施工管理のリソースも限られる。

自然の流れとして、現地でのプラント建設工事は顧客へ依頼し、SVを派遣して工事を指導することにより設計どおりの性能を担保するという方法が主に取られることになる。
現地で調達したほうが都合のいい資材などは、資材リストを顧客へ提供するなどして準備してもらう。
また、工事図面や関連図書は工事前にSVへ提供される。

このやり方が会社としての典型的なビジネスモデルとなり、現在に至っている。

異なるビジネスモデル

日本とは異なり、多く(多分、ほとんど)の海外の国では、現地ワーカーのコストは本社の人件費よりも格段に安い。
技量の優劣以上に。

海外では、特に発展途上国では、機器の据付が開始されるのに合わせて本社からSVが派遣される。
そして、SVが現地の安い工事会社や労働者を指導してプラントを据え付ける。

設計を入念に行ったとしても、一品物のプラントの場合には現場での手直しや調整が必ず出てくる。
また、現地で加工する方が効率的で安上がりになる場合も多い。

多品種を個別に設計するとなるとその分の作業とともに管理が大変であり、製作する工場では製造の煩雑さとともに高度な品質管理が必要になって手間やコストが増える。
逆に、標準化を進めれば工場の生産性は向上し、融通性も高くなる。

もちろん、現場での修正や調整に当たっては、SVの役割と責任、その裁量が大きなポイントとなる。
設計の変更となると本社の技術者との協議が必要となるが、概して設計者よりも現場を知るSVの方がどうすればいいかを知っている。

また、現地工事を顧客の担当とすることで、工事コストやスケジュールに係わるリスクを分離できる。
顧客としてもSVの派遣により据え付けの品質が確保できるのであれば、工事は現地業者へ直接頼む方がやり易い面もある。
SVの派遣はコストプラスフィーとすることで、工事業者の遂行能力による長期化リスクにも対応できる。
ところで、ここでいうところのSVは据付に当たっての技術指導者であり、安全管理やワーカーの作業管理は日本と同じように顧客から工事を請負った業者が行うことになる。

遡ってエンジニアリングや工事設計、プロジェクトのハンドリングにおいても、上述の考え方がベースとなっている。
細かな部分まで作り込まない。
間違いでない限り現場で調整すれば間に合う。
なにより、そのリスクが管理できるということを経験的に知っている。

工事資材も余裕をみる。

工場出荷時の仕上がりではなく、プラントは現地で据え付けて初めて完成となる。
顧客もそれを受け入れている。

日本のビジネスモデル

一方、日本は、

製造工場における品質は世界的に見ても日本がリードしている。
高度な品質管理の手法は全産業に広まっている。
ユーザーは細かなところまで品質の高い製品を望み、製造者は差別化の要諦としてそれに答えようとしてきた。

海外の先進各国でもその傾向がないわけではないが、ユーザーの要求は日本ほど細かくない。

日本では段取り八分といわれる。
(欧米にこの概念があるとは思えない)
工事や試運転に際しても、速やかに作業を行い速やかに立ち上げることが優劣の決め手とされる。
職人の美学がそこにある。
工事管理において「手待ち」を発生させるのは、監督者として恥ずかしいことだと認識される。

プラントの契約はランプサムが一般的。
つまり工事込みの請負契約、責任施工。

また、日本では納期遵守に対しての意識が強い。
資材もきっちりと準備し、無駄をなくす。
そのためにも、現場での手直しがないように製作品は個別に設計し、施工図は、その通りに資材を準備してその通りに作業すれば完成できるレベルまで仕上げる。

図面通りに工事する。
現場では組み上げる作業が主体になる。
工期を短縮するためのプレファブ工法は一般的になっている。

現場監督の役割は、作業者を監督して図面通りに物を仕上げることにある。

現場で手直しが出れば、設計者が図面を修正した上で作業に移る。
その意味で、設計者の責任は大きく、現場を知らなければ務まらない。
(対して、本社のエンジニアは現場に出ることは少ない。)

それが日本人の慣習。
我々のコンペティターはそうする。

顧客もそれを期待する。
サブコンも当然、日本的に考える。

プロジェクトエンジニアリング

プロジェクトの大きな流れは、基本計画/見積設計、基本設計、詳細設計、調達・製造、工事、試運転、保守、のようになるが、エンジニアリングを手掛ける会社は、それぞれに一貫したプロジェクトマネージメント手法を所持している。

ここで、我々のグローバル標準のプロジェクトマネージメント手法に関して注意する点がある。
それは、顧客へ承認を求めるステップが、詳細設計の前に一度だけ、しかも一度に行われるという点だ。
そして、顧客はそんな我々の手法を知る由もないし、違う考えを持っていてもおかしくない。

もちろん、契約に当たって、また、基本計画/見積設計の段階でコンセプトベースの承認や合意は必然的に行われる。
しかし日本の会社では、契約後においても様々な設計に対して承認作業を求められることがある。

これらの特徴は、日本独特の稟議システムとも相まって仕事のプロセスを混乱させる要因となっている。
特に日本では、見積りの時点から詳細設計に至るまで、様々な形でExecutionとClarificationを同時に遂行するという特徴がある。

承認手続きの必要性は、以降の詳細設計や調達・製造段階での変更・修正とならないように顧客と合意をしておくことにある。
これは、どこの世界でも同様だ。

但し、日本的には、詳細設計に関しても顧客へ承認を求めることがある。
これは、調達・製造へ移行する前の最終確認を意味する。
また、設計の承認作業は、個別のプロセス、機器、機械、制御システムごとに行われることもある。

この違いは、もちろん必要性に負うところが大きいが、詳細図が提出される、カスタマイズできる、事前に相談がある、と考える顧客は多い。
一方、大手の顧客であれば、顧客独自の品質管理や社内規格との整合性を持たせるために関係図面を要求し、必要な修正を事務的に求めてくる場合もある。

従って、承認作業を含めたプロジェクトの進め方を事前に顧客と確認しておくことや、承認に関しては範囲を限定するとしても、顧客の要求による部分や他設備と関連する部分は事前に確認しておくなどの対応が必要となってくる。
また、顧客のイメージとかけ離れていないかどうかの確認や、引き渡し後のメンテナンスや運用を計画するにあたって顧客が前もって知っておく必要がある部分については、出来る範囲で事前に開示して確認を求める。

プラントは単品の機械と違ってユニークなものだ。
本社のガイドラインに沿って通り一辺倒のやり方をすればいいというものではない。

ただ、日本のエンジニアリング会社と同じようにやってしまうと、不毛な労働と役に立たない書類を量産することになる。
アプローチの仕方を含め、何とか理解してもらうように努力するしかない。

進め方が会社の標準手法とズレてくるほど、エンジニアリングに要する時間を含め全体的なコストが標準のプロジェクト遂行コストよりも増えることになる。

実際のところ、詳細設計に入ってからの変更要求に応じるには大きな労力が必要となる。
しかし、顧客の言い分がもっともであるような場合には、曖昧を排して何とか合意できる形に持っていく努力は必要だ。
できないと断じるのは簡単であるが、良いものを作るという原点を忘れてはならない。

調達/製作後、あるいは納入後に大きな変更要求となれば、いずれにしてもコスト負担やスケジュールの問題が発生し、お互いに後味の悪い結果となるばかりでなく、会社としての評価を落とすことになる。

どのよう考えても会社標準のやり方より手間がかかることになるわけだから、契約時にあらかじめプラスアルファー(本社標準に対し)のエンジニアリング時間やサービス時間を見込んでおくというのが現実論だ。

スケジュールのタイムラグ

納入日から遡ってしかるべき時期に設計を開始しなければならないが、ヨーロッパからの貨物を海上輸送する場合、通関を含めて輸送期間は1.5か月から2か月必要になる。
納期的には、国際貿易に関わる煩雑さや、外乱による影響をある程度考慮する必要もある。

ここで、当たり前ではあるが、更に大事な点に注意しておく必要がある。

顧客が別途発注している機器や設備があると、それらとの設計のタイミングがズレてしまう。
つまり、我々の設計は、客先手配機器、あるいは客先の設計よりも2か月先に始めなければならない。
しかも、短期間に。
更に、生産管理の都合により後からの変更は非常に対応しづらいので、設計は最初に固めておかないといけない。

国内手配品であれば、納期に合わせて設計のタイミングを遅らせたりもできる。
その方が細部の仕様を固めていきやすい。

顧客との間でこのあたりのタイミングや思惑のずれが後で明らかになってくると、その挽回に余計な労力やコストを費やすことになる。

据付工事

本社の進め方の場合、現場工事(顧客が担当するにしても)が間延びして日本ではコスト高になる可能性がある一方、設計・製作を含めた全体としてはコストを抑えられる可能性もある。

この場合、派遣されるSVが、図面上の不備や他設備との干渉などを修正し、プロセス的にも現場でアレンジして最適な形に仕上げることになるので、工事図面は暫定図と見なすこともできる。
施工に関して言えば、SVの役割の方が、図面を書くプロジェクトエンジニアの役割よりも重要になる。

一方、そのやり方を日本で行うには、事前に顧客や工事業者へ十分に説明し、理解して納得してもらう必要がある。
特に工期や工事期間中の柔軟な対応について話し合っておかないといけない。

元来、現場合わせで進める種類の工事であれば問題にならないが、図面通りに仕上げた方が確実な種類の工事であれば、設計部門を有するある程度の規模の工事業者であればキッチリと図面を作成することを希望する。
正確な工事図面を書いたほうが資材の計画や工事の人員の見通しを立てやすいし安心できる。

本社のやり方は、ワーカー(工種別、技術レベル別)、棒心、監督等、工事の進捗に応じて必要となる頭数をリストにして顧客へ提出し、その人数を適宜準備してもらい、SVが図面に基づき彼らを指導して工事を遂行するというスタイルが前提となっている。

同じようなセットアップが可能ならば別だが、ある程度の大きさの工事になれば、リソースを確保するためにある程度の規模の工事業者の協力が必要になる。
また、統括的に工事の安全を確保する必要があるため、やはり、それなりの工事業者に協力をお願いすることになる。

この他にも、使用される工材や資材の規格がヨーロッパと異なる個所については、国内で調達するために工事図面の現地化が必要になる。
(輸入を検討する場合は、現地での加工や手直しを考慮)

従って、現実的には小さな規模、あるいは現合で進める種類の工事でなければ、本社が志向するような工事の進め方ができるかどうかは疑問であり、事前に実現可能性についての十分な調査や検討を行った上で判断する必要がある。
例えば、一度でも同種のプラント工事を行ったことがある業者であれば、その知見から何らかの提案が得られるかもしれない。

ところで、本社からSVを呼ばなければならない場合はいずれにしても注意が必要だ。

本国から派遣されるSVにとっては彼らの理屈が全て。
それが彼らにとっての標準でありそれ以外は知らない。

プロジェクトマネージメントに関わる体系的な知識も持っていない。
組織で仕事をする場合に、チームに貢献するという意識が薄い。

ランプサムの意味を理解しているのかも疑わしい。
工事の費用負担を二の次にして、自分のやり方を押し通そうとする。
品質確保のためだが、スケジュールに基づいて工事を急ぐという協調性が乏しい。

彼らは日本人の現場監督とは異なる経験と役割を持ち、異なる仕事の手順、考え方に基づいて行動する。
敬意を表する場面も多分にあるが、ある意味協調性を阻害する要因となり気苦労を伴う。

もちろん、頼りになり、もう一度一緒に仕事をしたくなる人物もいるが。

本社と日本との仕事の進め方の違い。
ポイントは、工事設計と施工のバランスを事前にどのように計るかにある。
設計や工事の規模、複雑性、難易性、コスト、工期、リソース、工事設計の分離、工事業者、コンペティターとの関係、経験値、顧客、等々。
様々な要素を検討しないといけないし様々なセットアップが考えられるが、現実的には選択肢は限られてくる。

現地のプロジェクトエンジニアが基本となる図面を作成する。
自前のSVを派遣し、工事設計や工事は協力業者のやり易い方法で行う。
そのやり方がハマれば、それが最もまとまりがいい。

理解してもらえない限り顧客の不満は解消してもらえないが、ビジネスカルチャーの違いだけに全てを相互理解することは困難だ。
初めから全面的に信頼してもらうことも難しい。

そうなると、引き渡し時の完成品としての結果がとても重要となる。
最終的には顧客にはそれで納得してもらい、信頼を勝ち得るしかない。

インスタレーションドローイング

工事図面と訳す。
しかし、その実態には大きな誤解がある。
(解釈において個人差がある)

本社で作成するインスタレーションドローイングは、準備図、参照図、あるいは暫定図という意味合いのものだ。
現地である程度の調整や詰めを行うことを前提にしているところがある。

日本で工事を行う場合は、インスタレーションドローイングなのか、工事図面なのかをはっきりさせる。
工事図面であれば、それを見て工事業者が必要な資材を調達でき、SVなしでも工事を実施できるレベルの図面と解釈される。
(計画図、基本工事図面、施工図面、等々、どの程度のレベルの図面が必要なのかを工事業者と確認しておく必要があるということ)

一般に、工事図面は詳細で正確でなくてはいけない。
現地で修正が出た場合は、図面の手直しに対して責任がある。

なお、正確な図面が書けるかどうかも考えておかないといけない。
本社もしくはグループ会社から手配する機器について、正確で詳細な図面が入手できなければ、その部分はペンディングになってしまう。

本社が作成する電気工事関係の図面がいい例で、日本のように細かくは作りこまない。
現場で実物を見て、あるいはSVが指導して施工することが前提になっている。

本社では、自前のメカニカルエンジニアが機械工事用のインスタレーションドローイングを作成する。
しかし、日本でいうところの工事図面となると、我々が作成することが効果的なのかどうかを、まず考えないといけない。
専門性やコストの点で必要により外注の活用を検討する。

インスタレーションドローイングと工事図面。
背景として、設計と工事との比重の違いや役割に関して、本社と日本との間にカルチャーギャップが存在することから、話がより複雑になっている。

現場管理

本社のSVは基本的に据付技術指導者であり、現場監督ではない。
特定の国においては現場監督の派遣もあり得るが、日本では意味がない。
日本の労安法をベースとした現場での安全管理手法や元請けの責任などを理解している外国人はどこにもいない。

現場監督は、現場の安全管理、工程、品質、コスト、アドミ、そして顧客や工事業者、その他関係者との連携など、多くの仕事をこなさなければならない。

それらは現地法人の仕事となる。
エンジニアリング会社の手法としては、設計を担当した人が引き続き現場工事の管理を行うことが多い。
PMがCMとして現場へ赴任する。
それで一貫性を確保できる。

このような考え方は本社にはない。
本社のPMは、設計を終え、調達や製作、出荷の手はずを整えれば、後はドキュメントをまとめてSVへ引き継ぐ。

確かに、机の上の仕事と現場の仕事は種類が異なる。
担当者は、異なる技術や経験を身につけなければならない。

日本法人には、本社のSVに当たる部署がない。
一方、納入品の確認、機械の組み立てや作業手順の指導などには専門性が必要だ。
また、何かあったときに設計を交えた速やかな対応ができないといけない。

本社のSVから解放されるには、この部分をどうにかして補わなければならない。

SVの憂鬱

本社のSVを思うとき、彼らの仕事に対して敬意を抱かずにはいられない。
困難な環境に果敢に踏み込み孤軍奮闘する、という点において。

しかし、彼らは次の点において我々との対立軸を形成してしまう。

① 彼らにとって最も重要なのは図抜けてQ(=品質)であること。
S(=スケジュール)、C(=コスト)がそれに続く。
彼ら、あるいは本社にとって工事は客先が行うということが標準であるから、工事におけるSやCに対しての認識が乏しい。
また、Qが彼らに対する評価基準のほとんどになっている。

② 現地の標準を知らない。
ローカルで準備が進められるケースや、ローカルの協力が必要な場合でも、自分の経験と本社のやり方を当たり前のように押し付けようとする。
彼らの定義で語り、現地の定義を理解しようとしない、あるいは受け入れようとしない、できない。

③ ローカルにおける態度。
日本的な協調、和、コンセンサス、尊重、段取り、あるいはビジネスモデル、等々の無視。
彼らの態度が発展途上国で有効であったとしても、日本ではそうはいかない。
一部を除き、その束縛から目を背けようとする。

コミッショニング

プレコミッショニングあるいはコミッショニングにおいて、本社から手配するプラント制御システムの納入時の仕上がり具合は、スケジュールだけでなく現場の雰囲気に大きな影響を与える。

上流設備や下流設備との取り合い、多くの関係者との調整、初めての生産という注目イベント、オフスペック製品の量、商業運転の期日、緊張感とプレッシャー。
技術的なトラブル以外にも、短期間に様々な対応を速やかに行わなければならない。

ところが、設計と工事の関係と同じように、現場で仕上げればいいといった考え方が一部にある。

彼らは、事前のテストは十分に行ったと言う。
立ち上げ時に多少のトラブルが発生するのはやむを得ないと言う。
しかも当然のように。

であれば、いくつかの経験から導き出されるのは、程度に対しての認識の違い、現実においての彼らの認識の甘さということになる。
しかし、顧客から見れば彼らは我々であり、矢面に立たされるのは我々だ。

現地を訪れたシステムの担当者は、事態の深刻さを知り、時間がもっと必要だという。
彼らは非常に協力的ではある。
しかし、現実はどうしようもない。

少なくとも、事前に本社とコミッショニングの進め方に対して共通の認識を持っておく必要がある。
日本事由として、通常以上の対処や準備をしておかなければ必ずと言っていいほどトラブルとなる。

同時に、顧客に対して我々の仕事の進め方を説明して調整しておくのは、我々の仕事だ。
要はお互いにとって実現可能な計画を立てるということだ。

顧客としても、他の関係者との調整が事前にできていれば安心であり、多少のサプライズに対応する余裕も生まれる。
後の祭りとならないように。

一方、試運転段階で初めて顧客が運転上の問題点や改善点を指摘してくる場合がある。
事前に事細かく確認することはできないので、ある程度やむを得ないこととして誠意をもって対応するしかなく、その余裕をスケジュールに見込んでおくことも必要。

試運転が速やかに進めば、それは我々としての差別化にもなる。
試運転は、ある意味で英知の集約の場といえる。

プロジェクトドキュメント

メーカーとしての由来なのか特定の業界の慣習なのか、あるいは単に工事がスコープに入っていないためなのか、本社には完成図書という概念が薄い、あるいは日本と異なる。
完成図書のように一式として図書類がまとめられるが、それは納入図面という形でまとめられる。

それは、顧客あるいはSVに対し、工事および試運転を遂行するための資料として提供される。
納入図面としてまとめれば、そこに顧客が後々必要となる情報もすべてそろっていると考えているのかもしれない。

背景として、トラブルシューティングやメンテナンスが必要な場合、顧客は我々に全面的に依存してくる、ということを前提としているのかもしれない。
確かに、海外においては、そのようなケースは多いと思われる。

いずれにしても日本では、完成図書としてプロジェクトの最後に一式の図面を提出することになる。

コミュニケーションの罠

Ref.『サラ忍マンコミュニケーション』

問題を問題として認識できない本社。
我々が置かれている状況や顧客の感情的な雰囲気を伝えても、彼らには伝わらないらしい。

相手を何とか理解させたい。
理解してもらえたら、適切な対応をしてくれるだろう、という期待。
しかし、専門知識の非対称性はどうしてもその過程を曖昧なものにしてしまう。

依頼者は、相手はこちらよりも知っているはずなので納得できる説明をしてくれるハズ、と考える。
担当者レベルでわからなければ、組織として対応してくるハズ、と考える。

しかし、その依頼が相手の担当者の直接の仕事ではない場合、その担当者にそれだけの知識がない場合、あるいは知っていても言ってしまうと大きな話になる場合、その担当者に積極的な対応は望めない。
担当者は直接の担当者や関係者に話を伝えるところまではやってくれるかもしれない。
但し、それは事務的な手続きに終始し、依頼者の危機感が伝わることはない。

組織が細分化され責任が分散されているような組織構造の場合、直接関係のないことに対しては自分の問題ではないとして当事者意識が働かないのかもしれない。
そうなると、そこで問題が止まってしまう恐れがある。
また、そういう組織なので、直接関係のない立場の人は積極的に関わりを持とうとは考えない。

日本人は、分かりあった上で、分かち合った上で協力して問題に対処するという考え方を持つ。
だから、問題だけでなく問題となった背景や顧客の期待、不満、事の重要性、注目度、それらを丁寧に説明すれば、彼らは動いてくれる、と考える。

しかし、彼らからすれば、自分の裁量を超える範囲の話をされても自分には関係のないことであり、何のためにそんな話をするのかといぶかしみさえする。
こうなっては、それ以上の進展は期待できない。

ただ、本社が何でもかんでも対応しないといっているわけではない。
瑕疵に対しての対応自体はスムーズに話が進む。

但し、是正を含め、後からの修正要求(日本人としては、その程度、と思えるものも)に対しては、その対価が得られなければ対応は鈍くなる。
我々としてもその違いは明確に区別する必要がある。

ところで、最近になってようやく本社にも事の重大さが理解されるようになってきたのだろう、品質悪化評価の挽回に向け、トラブルの早期解決、対応ルートの明確化、個人レベルでの認識改善、CAQ(Computer Aided Quality assurance)システムの導入など、新しい試みがなされてきている。
いくら頑張っても日本の品質管理基準までは到達できそうにないが、新しい時代に向けての明るい兆しと捉えたい。

コミュニケーションのズレ

理想的に言えば、我々日本人スタッフがみんな英語に堪能であれば、外国人とのコミュニケーションは格段にはかどる。
基本的に、彼らはグッドイングリッシュスピーカーだから。
しかし、それは理想に過ぎない。
現実を受け入れ、理想と区別しないといけない。

もちろん、技術的な、あるいは経験的なバックグラウンドは、相互のコミュニケーションの助けとなる。
ただ、カルチャー的な経験値が異なれば、事実に対する見方も変わってくる。
また、仕事のプロセスの違いも、コミュニケーションに影響を与える。

従って、外国人と我々との間には、前提として、コミュニケーションに係る問題が存在し、お互いを完全に理解することが困難だということを理解しておくべきだ。
(日本人の間でさえ、理解し合うのは困難を伴う)
この事実を受け入れ、お互いに疑うのではなく公平な視点で話し合うことが求められる。

また、感情的になる場面こそ一歩引いて論理的な対応が必要になってくるのはよくわかるが、我々は誰しも聖人ではない。
一方的な我慢は健全ではない。
現実論としては、お互いが誠意をもって対応することでしか平和は訪れない。

ただ、どうしても避けられないこともある。
例えば、彼らは特定のシーズンに長期休暇をとる習慣がある。
休みを取るシーズンは日本と異なる。
顧客への対応が滞る場合も出てくる。
そうすると、文句を言われるのは我々であり、彼らが直接文句を言われるわけではない。

現実的な対策を行わない限り平行線のままで変わらない。
日本にいる外国人、日本で働いたことのある外国人の手助けは、こういった点で特にありがたい。

組織の歪

完全な組織、またはすべての人間が納得する組織、などというものは存在しない。
そんなものを期待すればするほど現実から遠ざかってしまう。

具体的には『サラ忍マン組織論』で述べているが、我々の組織の問題は、社員の通念において組織に対する考え方が、本社の大きな組織のミニチュア版をベースにしてしまっていることに起因する。
Ref.『組織の大きさ』

つまり、マトリックス組織をうたいながら、その仕組みを理解できず、もしくは受け入れず、横断的な思考形成に至らない。
利害の異なる関係者が直属のマネージャでなければその人の意見を真に受けないという事象。

つまるところ、統合的な見地で合意形成を働きかける人間がいない限りうまくいかない。

コミットメント

思想的なもの、経験的なもの、宗教的なもの、メンタリティー的なもの、それぞれにおいて目に見えない差異が生じる。
背景が異なることで、見えている世界や歩む道は同じにはならない。

結果に対しドライ。
トップの方針が履行されず、反省もない。
改善への対応が遅い。
協調性がない。
泥をかぶる番頭役がいない。

これらは我々日本人社員にとっての永遠のテーマ、あるいは制約とも感じられる外資の特徴だが、実はここに共通する背景が一つある。
それは、コミットメントにおける、受ける側の責任の重さに対するとらえ方が、欧米と我々とで異なっているという点だ。

欧米の視点からすれば、我々の考えは甘い、ということになる。
大げさに言うと、それで生きていけるのか、ということにもなる。
しかし、現実には、彼らは我々の考えを理解しているわけではなく、また、理解したとしても、彼らが考え方を変えるわけでもない。

彼らの社会では、上司が部下を逐一モニタリングし、教育指導しながら是正していく、などというシステムは、それが目的でない限り日常の業務の現場にはない。
日本人がそのような期待をしていたとしても、あるいは期待するものだが、文字通り期待倒れで終わってしまって現実が大きく進展することはない。

なぜかというと、指示/指令に対するフォローアップのシステムやそのような余裕が、我々の組織、つまり彼らの組織、に本質的に備わっていないからだ。
そもそも、地位や役割に対する定義は、場所や組織が変われば同じにならないことに注意する必要がある。
彼らの世界では、指示/指令に対して、自己責任に基づき、自分で考えて行動することが基本になっている。
だから、番頭役はいないし、置く理由を持ち合わせてもいない。
責任により組織が分割される一方で、階層的にはフラットな構造になっている。

一方、それを補うために、役割の分担、監査や透明化などはしっかりとしており、社内のトレーニングや教育プログラムは充実(彼らにとっては必然)している。
彼らにとっては、トレーニングは、「教わる」というよりも、「知識や技術を獲得する」機会、と捉えられている。

彼らの社会では、コミットメントとしてやり遂げるという個人の強さ、組織の活性化が問われている。
主張をぶつけ合いリーダーシップにより全体を統率するというのが彼らのやり方。

そもそも、「組織」という言葉の定義が同じだと思いこんでいる時点で見誤っている。
欧米の会社ではリーダーが組織をけん引する。
日本の会社では部員が協調する。

外資の精神。
良い悪いの話ではなく、我々が外資で勤める以上はその現実を受け入れないといけない。
しかし、それだけでいいとも思わない。

コミットメントに相対するのは和の精神(和を以って貴しとなす)だ。
我々の力を最大限引き出すためには、彼らのシステムをそのまま受け入れるのではなく、我々としての指針や考え方を、我々として持たないといけない。

ポジティブな発想を好む外国人

結果責任に対する意識の違いがあるのだろうか。
大風呂敷であってもそれを広げて頑張る人は評価できる、とする。
「できません」、「それは無理ですよ」、が嫌われる。
その前に、パッションを求められる。

社内の担当者間で生じた紛争に対して喧嘩両成敗はない。
どちらかが生き延びる。
結果、より嫌われた方が去る。

ソルーション、オブジェクティブシンキング、建設的な議論。
日本の会社では上司に従属的であればよかったのに、未知の文化の元にその責任を問われるわけだから矛盾を抱えてしまっている個人もいる。
確かに、ヨ-ロッパの会社でその地位にいれば、当然のごとく意欲を問われるのだろう。
共感を求めたがる日本人はその点で弱い。

仕事の紛争

日本人の仕事の手際の良さは国際的に評価されている。
それは我々の文化的な表現の一つであり、強さの土台でもある。
一方、それは国際的に協調する場面において不協和の原因にもなる。
中途半端なまま遅々として進展せず、取り戻すことのできない時間が無意味に失われていくような、思うに任せない事態に陥ることもある。

結果を求めることが優先され、相互の理解が図られないまま時間が過ぎる。
本質を見失うと、事なかれ主義にも似た、瞬間で切り取ったような根のない表現を信奉するぬかるみの主張者が現れ、状況を増々混乱へと陥れる。

例えば、なぜ日本人は事細かく要求するのか。
そこにはカスタマイズの文化が背景として存在する。

その違いを、カルチャーの違いを誰もが理解できていない。
両者とも、だ。

コミュニケーションの阻害要因

整理すると、以下の要因に絞られる。

一、日本人の英語力
一、異文化という背景
一、合意形成自体の難しさ

例えば、相手を理解できないので過度に自己主張する、オブジェクト指向になれないので不利になることを受け入れない、相手を納得させようと一方的になる、立場のそもそもの違いを受け入れずに押し付け的になる、そもそも合意形成プロセス自体にビジネス文化の違いがあることを理解できない、そこにお金が絡む、自分たちの国での経験や業者がどうであるべきかを持ち出す。
外資を契約先として選ぶことの意思疎通に係るリスクは、外資を選んだ側の負担(査定と責任)もあってしかるべきなのだが、現実には客先に負担を求めるのは容易ではない。

日本的依存社会と非効率さ

品質問題に対し、検査記録や検査要領書の提出、是正措置の方針表明、トラブルシューティングの具体的な手順書。
それらを、メーカーとしてしかるべき、として要求してくる。
だせなければ、けしからん、だから外資は品質が劣るのだ、と。
しかも、日本のメーカーが従順であるのに対し、外資は言う通りにならないから余計、担当者への風当たりが強くなる。

カルチャーの違いと言えば一言で済んでしまう話だが、日本人が誇りを持っていつも語っている品質が、非効率な副次的作業をベースに成り立っていて、非効率がゆえに国際競争力の低下を招き、エンジニアへ過重労働を強いているのだとすれば、彼らの主張は大いなる筋違いと言うしかない。

世界は、日本のような依存社会ではない。
自主自立を基本とする社会だ。
だから、相手の立場を尊重する。
それで成り立っている。

系列でもなければ、大手がいちいちあーしろこーしろと教育的指導を行うことはない。
日本では、その意識が通念として社会へ浸透しているため、それが当たり前になっている。
そして、確かにそれは強みとして活かされているが、だからと言ってそれを外国の会社へ訴えてもうまくいくはずがない。

昨今では、強みであることが災いしているような感さえある。
聖域化、最後の砦のような。

日本の会社は、外資の強みを活かして自社の競争力を高めるような、そして、リスクを正しく認識して社内改善につなげるような、そんな当たり前のことをやればいいのだが、なかなかそうはならないようだ。
国際競争力において非効率という負の面が顕在化してきてる背景には、旧態依然とした組織と依存から脱しきれずに自分で考えることのできない人、そして社会がある。


チャレンジ

我々のチャレンジ

分かっていても、輸入される機械の品質の不味さや手違いに、くじけそうになるときがある。
特に、プラント案件などで取り合いが多い時はなおさらだ。
時間的なプレッシャーが、不安や不満を増幅させる。

誰もが、期待するものだ。
自分の願っている通りに相手が反応してくれることを。
そして、そうならないからがっかりする。

しかし、忘れてはいけない。
相手のことを思いやって、相手の異なる文化や立場を理解するように努めることを。
そして、考えることを。

毒(悪意)を増幅させることほど愚かなことはない。

エンジニアのチャレンジ

一般的なエンジニアリングに必要な能力に加え、外資であり、メーカーである我々には更に別の能力が期待される。
それは、本社とのコミュニケーション能力、機械やプロセスの理解と応用、そして、諸々の困難を背景とした上での、プロジェクトの最適化能力。

肝心の技術力においても、本社に頼れば頼るほど、頼らなければならないほど、どちら側にとっても仕事がやりにくくなるわけで、顧客へのサービス低下にもつながる。
エンジニアリングによって付加価値を最大化できなければならない。

顧客の要求を正確に把握し、回答を顧客へ正確に伝える。
そうでなければ、間違いなく手間がかかり対応品質が落ちる。

一方で、我々の強みがどこにあるかということをしっかりと認識する必要がある。
例えば、顧客の細かな要望やこだわりに応じたエンジニアリングは得意ではない。
何でもやりますといったエンジニアリングでもない。

逆に、我々が持つ強み、機械、プロセスに密接したノウハウや技術力を顧客へ提供することができれば、枝葉ではなく土台において、顧客の利益を最大化する手助けになる。

もっとよくなるハズ。
しかし、それが我々の現時点での実力。
嘆いても始まらない。

仕事の品質

納入品の結果品質とは別に、エンジニアリングやプロジェクトマネージメントの品質を上げていかないといけない。

経験していないことに対してはどうしても失敗が多くなる。
一度でも経験すれば、多くを改善できる。

必ず改善するということ。
改善を維持するということ。
変化にも対応できるということ。

前提条件

もちろん、前提となる条件として、現地法人の日本人にある程度のコンピテンシーがなければ何も成り立たない。

独善や独走、コンプライアンスからの逸脱。
知識、技量や専門性があってもそれだけでは不十分。

理想

ヨーロッパの歴史に培われた老舗の機械メーカー。
機械はいいけど高い、それだけの(顧客との)関係で終わらせたくない。

確かに、日本は彼の地に在りマーケットは限られている。
売れる範囲で売れればいいというのが最初はあったと思う。

品質や顧客の満足、社会への貢献は社是であるが、社業が発展してきたヨーロッパと異なり、ここでは会社の規模は小さく、部品の在庫やサービスに同等のレベルを提供することはできない。

そうしたなか、実績を積み重ねながら、曲がりなりにも顧客との関係を築いてきた。
そして、グローバル化の中、より身近な経営が求められている。

変化を強いられるという環境は、顧客周辺でも生じている。
だから、両者の歩み寄りを通じて独自の協調体制を構築することが、今後の展開においてより重要なってくるのではないだろうか。

成功のカギ

つまるところ、外資が日本で継続して成功するには特別な差別化要素を持っているかどうか、もしくはカスタマイジングとサポートを顧客満足レベルで構築できるかどうかがカギとなる。
後者にはある程度のマーケットボリューム、そして顧客との信頼関係が必要だ。

自己主張

カルチャーの異なる外資の会社で日本人がどのように働けばよいか。
経験に基づく実績に加え、やはり、「主張する」ことは欠かせない。
なぜなら、当たり前のことだが、外資の会社では日本的なコンセンサスが必ずしも機能しないからだ。

本社の強みを活かさなければならない。
中途半端にならないことが要件だ。
文化的な障壁に遮られ意志疎通に支障をきたすようなことになればお互いが不幸になる。

社内だけでなく、客先に対しても同様だ。
もちろん、主張ばかりではダメだが、相手の意図を捉えた上で誤解を与えないように主張することは、日本的文化しか認知することのない顧客と建設的な議論をするために必須となる。

制御システムに見る傾向

省力化、品質の均一化、生産性、ミスの削減と検証、更に最近ではトレーサビリティーの点からも、新規のプラントであれば第一にプラント制御システムが検討されることになる。

どのような制御システムを導入するかは生産ラインの特徴や運用との関係において総合的に検討されることになる。
制御システムは全体の設備の中で大きなコストを占めるものではない。
そのせいか、信頼性が不明な海外の電子機器を使用し、国内と異なるプログラムが内蔵されたシステムを、メンテナンスや改造の難易の点で最初から受け入れられないとする考え方が一部の顧客にある。

一昔前まで、海外製品においてそのような傾向は確かにあったかもしれない。
しかし、時代が変わり、規制や規格の国際化もあって既に多くの海外製品が日本で使用されており、海外との物理的、精神的な距離が縮まってきている。
また、近年のメカトロニクス、機械制御やプラント制御の高度化に伴い、制御システムに関連する技術は信頼性が増すと共に深度化し、多様化してきている。

保守においても、保守要員の技量によるが、顧客がそれらすべてに対応する技術を保有することは難しくなってきている。
顧客の保守要員がメンテすべき範囲は限定してサプライヤーへ保守サービスの主体を依頼し、顧客は本業へ注力するという体制の方が有効に思える。
言い換えれば、そうすることで、顧客保守要員の技量に依存しない高度な制御システムを導入することもできる。

発展途上国を含めて本社製の制御システムが世界中で使われているという事実。
今、何が必要かという観点を素通りしてしまうと、後進国にパフォーマンスで劣る結果にさえなり得る。

日本のメーカーの品質は高いしサービスもいい。
後進国には同種のサービスがないため、仕方なく海外製を使用しているのかもしれない。

しかし、経験がない海外製というだけで拒否反応を示さず、それまでの経験に基づく既成観という見地のみから判断しようとする前に、海外の同業者がどのように運用しているかを実際に見るのがいい。
日本人が後進国から学ぶ時代が来ている。

本社のチャレンジ

但し、それは我々のチャレンジでもある。
顧客意識調査の結果に表れているが、自分が顧客の立場であれば、本社の人間に対し次のような問題を見て取る。

エンジニアや製造現場の人間が現場に行かない。
顧客の顔が見えていない。
エンジニアリングや製品を作るという行為は、製造機械と同様に我々の商品の一部なのだが、契約を重視するあまり顧客を満足させようというモチベーションが働かない。
(チェンジマネージメントに疎い)

プロジェクト体制やプロジェクトマネージメントへの理解が低い。
工事や試運転での現場経験が少ないためイメージが貧相。
全体像の把握に劣る。

プロマネと、電気エンジニア、SVや試運転担当者との連携がうまくない。

若く、経験や技量がポジションに伴っていない。
シニアエンジニアによるサポート体制が弱い。
標準から外れると処理できない。

他国のビジネスカルチャーを理解しようという動機もなく、こちらの不満に対し理解を求めるのは期待薄。

直接面と向かって話し合えば解決する場合も多々あると思われるが、メールで対応できないのはコミュニケーションの資質の問題というよりも、組織の壁の問題の方が大きいように感じる。
顧客に直接会って面と向かって話せれば一番いいが、それが現実的にできないから現地法人がある。

しかし、あらゆるすべての言い逃れを受け入れざるを得ないとしても、本来、納得いくものではない。

安心できる担当者とトラブルを必ず起こす担当者のギャップ。
プロセスオリエンテッドなプロジェクト組織は、シニアのサポートが受けにくいという構造を持つため、担当者ベースのコンピテンスがあからさまに結果として現れる。

大きな組織の罠、個々のプロジェクトに対する当事者意識の欠如、部分最適、カルチャーギャップ。。。
グローバリゼーションのダイナミズムにあおられながらも、若者を正しく成長させていかなければならない。

歩みより

本社の人間が日本の顧客の異質さを理解することは、現実問題として非常に困難だ。
しかし、我々を理解することであればある程度可能なのではないか?
本社は、我々のコンピテンスを自らの力として利用すればいい。

日本人の役割やその仕事の内容が本社の担当者に認められ、尊重され、スムーズに協力が得られる関係。

新しい技術やプロセスの場合、我々はまだまだ多くを本社に頼る必要がある。

協力的な人はもちろんいるが、担当者レベルにおいては、まだまだ不十分な感が否めない。
全力で顧客に対応できるようになったとき、我々はもっといい仕事ができるハズ。

姿勢

ビジネス文化や手順の違い、言葉の不自由さにより相互に誤解が生じることは避けられないという認識の上で、どのようにトラブルという結果を引き起こさないようにするかという考え方が大事。
コミュニケーションの問題ではなく明らかにアンフェアと取れる状況や、結果として成果がでていないのであれば、その改善を促すための提案は必要。

現地との対比において、本社の人間はより好環境(言語、システム、人材、物材)で仕事をしているのだから、負担と責任の点においてもっと自覚すべきだ。
関わりを持つ以上、好環境にあぐらをかいていては、相手を満足させることはできない。

リスペクト

現地の担当者と合意する前に、あるいは事前に何も知らせずに回答してくる、という本社の姿勢。
それも方法論として理解できる。

しかし、問題処理のプロセスは、それぞれの国や地域で同じではない。
本社の考えを一方的に押し付けても、それで最終的に問題が解決したとしても、遺恨は残るかもしれない。

対応については現場へまかすこと、が肝要。
現地を尊重し信頼することができない人と組織に、期待はできない。

初心忘れべからず。
苦心してコンピテンシーを身に付けたのはいいが、経験の劣る相手へ無遠慮に押し付けてはならない。

同じことが繰り返されようとしている。
かつて我々が被った情報の非対称性を、今度は新しい仲間に対し為すのであれば、そこに何の進歩もない。

本社の、いわゆる分かってくれる人が担当になるとは限らない。

黙っていれば、彼らは彼らのやり方を通そうとする。
本社の担当者を確信させることは、常に困難を伴う。
だから、我々には通常以上の努力が必要になる。

それが個人の努力により成り立っているとすれば、会社として見れば維持可能とは言えない。
事なかれ主義や、独走に陥るかもしれない。
有能な人材が会社を去る、かもしれない。

需要と供給のもとに、それらが微妙なバランスの上に成り立っているのが多くの外資系の内実なのかもしれない。

だから、そうであるから、我々には理想が必要だ。
いつかよくなるという理想。

それには、我々がまず良くなる、という意思と意欲。
そして、本社にそれに答えてもらおうという気概と余力。

本社の人間が意気に感じて何かしてくれるとは思わないが、本社にだってまともな人間は大勢いる。

一期一会

一期一会の精神、係わり、縁。
それは、プロジェクトにおける短期限定の係わりにおいてこそ意識すべきものだ。

プロジェクトは、終わればそこで終わる。
継続的な係わりは打ち切られる。

プロジェクトは、成功するのが前提とされる。
その過程で顧客を満足させなければならない。
が、現実には、顧客によって満足の中身は異なる。
一辺倒な対応に終始しても、顧客を満足させることはできない。

全てに同じように対応することを前提とした時点で、既に間違っている。

手法として、面倒な顧客にはそれなりのバジェットを組む。
そして、それを公正に実現する。

それは、スコープやテクニカルな話ではない。
インターラクティブの話だ。

B2Bのビジネスにおける個人的なコミュニケーションの重要性を正しく認識し、一貫性と個別化により顧客の満足を心がける。