これから


今起こっている未来

一般論

「情報の時代」が一つの段階を経た今、我々は「グローバリゼーションの時代」の訪れに飲み込まれようとしている。
新しい時代への対応が求められている。

TPPの議論にしてみても、個人や団体があらかじめ賛成と反対の立場で、現時点で我々の生活にどのような影響があるかという点を主題に、それぞれの自己主張や意見をぶつけているだけのような場面ばかり目につく。
刺激指向の大衆論ばかりで、時代の変化という背景と実態が語られる場面はほとんどない。

時代背景が、我々を取り巻く環境が時代によって変わらないという前提など成り立たない。
あるいは、今現在生きている人が経験している社会が今後も変わらずに継続されるという前提など成り立たないのだから、今だけを語っても意味がない。

ある者はそれが将来のためにならないというが、現在のイメージのまま将来を語ってもその将来はやってこない。
将来のためだと主張しながら、現在の利得を追求する。

人はどうしても目先のことばかり考える。
自己の利益や保守を考える。
過去の経験に束縛される。

それは、ミクロの生活の中では大切で必要なことであるが、時代の流れを注視し、先の時代のことを考えることも我々の責任だ。
今の時間は、現時点においては進行形だが、将来においては結果の意味しかない。

間違って決まってしまえば、それを修正するのに大いなる犠牲と悔恨を伴うこととなり、引き続いて起こる崩壊は既に始まった衰退の速度を加速する。
グローバル社会で生き残るために変革できるか、日本の洗濯について問われている。
想定外であった、などという言い訳は聞きたくない。

<2011年11月24日>


もちろん、みんなが異口同音に同じことを主張することはあり得ないことだが、不確実で根拠のない情報と事実が混在する中でも、公平な視野や独善の見極めといったことに優れれば、適切な対応についてみんなが同じような方向を向き、建設的な議論ができるはずだ。
この点において我々はもっと優れなければならないし、「情報の進化」はそれを手助けするような方向へ進んでいくものと予想する。

消費税問題では、将来を憂慮して増税に賛成する人が多数いる一方、様々な理由で反対する人もいる。
賛成・反対の議論を通してお互いに理解を深めていくということは重要なステップなのだろうが、論点が必要か必要でないかという点に終始し、なぜこのような状況に至ったのかについてはあまり触れられていないように思える。

今のこの状況は日本の国力の相対的低下の表れあり、一言でいえば、これが今の日本の国力ということだ。
我々はそれを認めるところから始めるべきだ。

全ては変化する世界と時代の流れのダイナミズムの中にある。
リズムが突然途切れるようなことは通常では起こらないし、期待すべきではない。

高度経済成長は、つまり他国との格差の拡大であり、人口の拡大であった。
その反動が今にある。

グローバルと将来の視点の脆弱さ。
過去に捉われ現実を客観視できない識者。
そんなことを認めたくないという無意識に支配された迎合。

井の中で同様に現実を客観視できない仲間に囲まれる心地よさへの甘えが、大多数が危機に触れないから危機ではないだろうという追従を招く。

<2012年4月10日>


結果から見るのと事前に見るのとでは見え方が異なる。
結果論で語るのは楽だが、結果を知らない状況ではもっと多くのことを考えなければならない。
時間に限りがある中、何かを判断しなくてはならないし、多くのことを考えることがいいことかどうかも判断しなければならない。

そして、手法が良かったか悪かったかに関わらず、結果はいつもある種の痛みを伴っているものだ。
痛みをどう捉えるかは主観と客観の差であり、痛みの深さは比較するものに依って変わってくる。
すべからく被る不利益に対しては我慢するのに、文句をいう相手がいるような場合は腹の虫がおさまらない。

ある事象について結果を見て改善することはできるが、それは、ある種の法則に基づきパターンが繰り返されるような場合に対しての話であって全てに万能ではない。
全知でない限り改善は常に求められる。

<2012年4月16日>


寓話やファンタジーの世界では地球を一つの生命体として表現することがある。
我々の将来を考えるとき、それぞれの国をそれぞれの生命体として考えれば、その関わりとダイナミズムが見えてくる。

日本が歩んできた道、その性格、長所と短所、老い。

今や、人が一人では生きていけないように、国は一人では生きてゆけない。
他の国と、世界の中で、正しく比較すれば、今起こっている日本の未来が見えてくる。

<2012年4月16日>


とにかく、この先、未来が我々に訪れる。
それは、今と同じものではない。
新しい世界がそこに広がっているはずだ。

<2013年1月3日>


そもそも弱くていい理由がない。
今の平和は先人の苦難とともに諸外国との格差の上にある。
弱ければ敗者となる。
祇園精舎の鐘を聴け。
我々はまだ人間史の激動の渦中にいるのだから。

<2014年12月1日>


化工品であふれる世界

街を見ても、部屋の中を見ても化工品だらけ。
自然由来のものは、植物と人、若干の石や土のみ。
例えば江戸時代まで遡れば、どこにいてもこんなではなかった。
ほとんどすべてのものが自然であった、人間が手で作り上げた加工品であった。

この変化は、地球の歴史からみればほんの短時間で起こってしまった。
ほんの始まりに過ぎないのだろうか?

不思議なのは、人間がこの変化に順応してしまっていることだ。
これが進化であることを望まずにいられない。

<2015年1月12日>


変化のエネルギー

変化というのはあるインフラの上で断続的に安定を伴って現れ、突き詰められやがて安定する。
しかるに変化を促すある種のエネルギーは継続的に発生し、そのエネルギーが変化という形で表出しなければ、それは蓄積されることになる。

そして、蓄積された変化のエネルギーは、やがてインフラの変化さえも誘導し、よりダイナミックな変化の形として現れる。

適応できなければ生きてゆけないという創造物の進化の原則は、人類に競争という宿命を負わせ、ほんの少しの安息しか許さない。

<2012年1月31日>


動摩擦係数と静摩擦係数があるように、変化させるには、継続させるのに必要なエネルギーよりも大きなエネルギーが投入される。

変化のエネルギーが投入されると、一方からある結果へ変化する際に、ほとんどの場合は他方へ行き過ぎる。
多くの場合、そこに奇跡などはない。
ref. 一般理論/ものの見方/フィードバック制御

<2012年4月16日>


担い手

歳をとってくると、どうしても感性よりも慣性で物事を考えてしまったり発想しがちになる。
そこに一つの解があることを知っているから。
せっかちな老人を想像すればいい。

変化において解を限定したり押し付けたりするべきではない。
変えられるのは若者の新鮮な発想であり、犠牲をも乗り越えようとする彼らのエネルギーと挑戦なのだから。

<2012年4月17日>


人口の増加

日本は人口の減少と、若年世代の人口比減少という二つの現実に直面しているが、世界的に見れば世界人口の増加に伴う諸問題が今後の課題になってくる。

小学校の時の命題として、「命の大切さと思いやりを唱えながら、一方で、なぜアフリカの子供が貧困や病気で死んでいくのが放置されるのか?」というのがあった。
日本が無償で援助すれば、日本人が多少、貧乏になってしまうが、それは我慢する、のレベルではないか?
一つの説明は、「もし助けたら、人口が増加してそれが新たな問題を生じさせる。」というものであった。
それはひどく漠然とした解釈であったが、国家間の紛争や歴史、利権、思想、宗教などまともに理解できない子供であるが故、想像を超えたところにある現実に対し、少し納得してしまうところもあった。

当時に比べグローバリゼーションが進んだ現在においては、世界的な需給の調整能力の向上や、世界的な紛争の減少に伴って協調体制が進められたことにより、より安定的な人口増が可能なのかもしれない。
もしくは、やはり紛争や権力闘争はなくならないので、教育問題なども改善せず、成行きの対応しかできないのかもしれない。

いずれにしても、人口、あるいは人口比の変動は、ドラスティックな社会変動が起こることを示唆している。

<2011年11月24日>


100年の今

100年たてば、全世界で、現在生きている人の顔ぶれは、実質、全て入れ替わる。
今、なんだかんだいっていても、それは、今、生きている間の話であって、やがて、今、生きている人はいなくなり、入れ替わり、次の時代の人たちが、なんだかんだいうことになる。
たった100年で総入れ替えだ。

時代は続くが、この世は我々のものではない。
今の世に生きている人が出来るのは次の時代に生きる人たちのために出来ることであり、次の次の時代については次の時代の人が判断することになる。
だから、我々は現在の利得を次の世代と分かち合わなければならない。

人が変われば世も変わるが世の中は継続されるのだから、今の世に生きている人は続く世に禍根を残すべきではない。

<2011年11月24日>


万年の今

しかし、今、自分がここにいるのは、脈々と受け継がれた命があったからに他ならない。
途切れずに、奇跡を繰り返しながら。
その証明、生きたる証。
なんと、まー。
艱難辛苦の時代を潜り抜け、幾たびの困難を乗り越え、荒波にのまれながら、希望を胸に抱き、将来の豊かさを信じながら。
ただ、子孫を残すことができたということは、最悪ではなかったのだ。
むしろ幸運であったと言うべきだろう。

受け継ぐ。
そして、我々は、次に命を引き継ぐ。

<2015年6月9日>


35年の周期

1956年の経済白書が謳った有名な文句、「もはや戦後ではない」。
この年(もしくは前年)が一つの区切りだとすることに違和感はない。
この年に社会にデビューした人たちは、まさに高度経済成長とともに実社会を歩み始めたといえる。

この世代が社会を引っ張った時代は、その意味でいえば、20歳から55歳、もしくは、25歳から60歳といった幅、つまり、35年になる。

もちろん、毎年、新しい若者が社会へデビューしているわけであるが、時代が入れ替わるという意味では、1956から1991年が一つの時代であり、次の時代の波紋は、1992年から2027年ということになる。

<2011年11月24日>


フロンティア

人類が世界へ展開したのは、より良い世界を求めての冒険だった。
死により学んだ旅程であった。
逃げ、ではなく、希望であった。
新しい社会への道程であった。
そうでなければそんな住みにくいところに留まらない。
今、世界は開発しつくされ、フロンティアはない。
今いる場所で発展するしかない。
それは新しい場所でのチャレンジよりも結果的に難しい道のりかもしれない。

<2014年3月9日>



Japan

アジアから見た日本

高度経済成長の余韻をいまだに引きずる日本の島国限定スピリッツと、アジアの開放政策。
内向きの国策にどっぷりとつかった平和ボケの国民と、若く溢れ出る野望を抱いた貧しい国々の民。

アジアの国々は、平和な時代の到来と共に教育を授けられた若い世代が台頭し、高い経済発展と競争意識の中、より国際的に活躍の場を広げてきている。
安い人件費と最新の工場設備、そして国際的に働く人材の増加。
日本とアジア各国の格差が、アジアの発展に伴いますます縮小されるのは間違いない。

日本は製造工場の移転という形でアジアへの進出を継続しているが、その地位と既得権はいつまで持続できるのか?
もはや、海外に日本人を派遣する時代ではなく、現地で優秀な人材を雇用するのが当たり前になっている。
既に韓国や中国で起こったように、アジア資本の企業はその競争力を高めてきている。

少子高齢化、グローバル化、国内空洞化の流れの中で、日本がアジアのリーダーとしてアジア圏の発展に貢献し、その中で日本も相対的な立場を維持しながら発展の恩恵を受ける。
そのような筋書きも、中小企業の死に体の状況と生き残りに迫られてやむを得ず海外に打って出ざるをえないという事情を見ていると、都合のいい現状肯定に過ぎないように見える。

日本人が他の外国、特にアジアの国々と比べて何が勝っているか?
国内の平和、日本人の勤勉さや協調性、全体的な能力の高さは、アジア諸国との競争においてマクロ的にも強みになることは間違いない。
欧米に比べても伍していける技術的な優位の数々は、勤勉さと長時間労働の賜物と言える。

別の言い方をすれば、勤勉さと長時間労働を我々がなくしてしまったら、発展著しいアジアの国々に対する優位性を将来に渡って確保できるのか?
安穏の罠にどっぷりと浸る前に、ミクロレベルで我が身を整え、来る日に備えなければいけない。

海外の強い企業、その強さの理由はなにか。
選択と集中。
ドライな効率性と合理性。

対して日本の対応は、規制による閉鎖性、全体の中の部分均衡、旧態依然とした商習慣、蒙昧的な横並び意識、ことなかれの妥協と相互依存、保守的な政策による出遅れ、非効率な組織、構造問題の先送りによる期待への裏切りなど、一部の企業を除いてその国際競争力の程度は無残だ。

日本は島国のおかげで他国からの干渉や影響が比較的緩やかだ。
それが、今後不利な条件になるかもしれない。
特に意識改革の面で。

<2011年12月19日 - 2012年9月6日>


その後も既定路線から大きな変化はない。
国もそれなりに危機感を煽っているようだが、保守勢力の抵抗を崩せない、というか、選挙で選ばれる議員はその性質上、表だって批判ができないし彼らに多くを期待することも出来ないというのが実情だ。

農業改革においてその様子が垣間見える。
小泉進次郎議員はよくやったようだが、農政の重構造へ与えた打撃は大きくない。
つまり、組織は維持され、彼ら関係者の現状の肯定感を超越する意識の改革は望めない。
ただ、小泉提案の「第二農協」というコンセプトは良かった、自分も同じ考えを持っていたので。

もう一つ気がかりなのは、現代世代の弱体化だ。
精神的にデリケートになった、それは分かるし予想のとおりだ。
働き方改革で労働環境の改善が進むのは喜ばしいことだ。
ただ、長時間労働を補うだけの仕事の効率化がなければ相対的国力の低下を加速する結果となる。
人が入れ替わらなければ組織は変わらない、ただ、入れ替わる人に意識がなければ組織は維持される。

残念ながら、働き方の効率化改革は次の試練を待たなければ始まらないかもしれない。
その端緒は、家電や重電において現れてきているが。

<2017年6月17日>


保守と革新

民主主義においては、時代は保守と革新のせめぎ合いの中で作り上げられていく。

変わることを良しとしない者、変わることが必要だと考える者。
変わる必要があるもの、変わる必要がないもの。
変わらざるを得ないもの、変わるべきではなかったもの。
ゆっくり変わるべきと考える者、まったなしと考える者。

変化にはまとまったエネルギーが必要だ。
変化は、必ずと言っていいほどオーバーシュートを伴う。
ソフトランディングできるほど、人はものわかりがいいものではない。

変化を恐れると、変化はできない。
一方で強行すると反発を招く。

明確な判断と方針を提示し、その方向へ民意が自ら動き出すような仕組みを作り上げることができるかどうか。

<2011年12月19日>


政権

時代が変わろうとする節目に華々しく登場した鳩山政権。
期待が見事に裏切られただけでなく、変わるべき機会を一つ失った。
この意味で、時代が後退してしまった。

知りうる限りもっともダメな総理。
理想を高らかに叫ぶだけで、実行力を発揮できない/実現できないのは、やはり、現場の本当を知らないおぼっちゃま育ちだからか。
領袖としての個人的な資質に問題があることが明らかとなったときは、後の祭りだった。

そもそもこのような領袖を選ぶしか選択がなかったということは、現実が極めて難しい局面に至ってしまっている、ということなのかもしれない。
かなり、厳しい段階に。

戦後の再生において国民が待ち望んだ生活の豊かさは、奇跡的な経済成長の流れに後押しされ現実となったが、飽くなき欲求は泰平の世においてそのまま飽食へと至り、ミクロレベルでの嗜好の多様化と希薄化とともに、インセンティブの多様化と希薄化を国民生活に持ち込んだ。
もはやモチベーションは明確なベクトルを持たず、個々の利害が相対的に強調される世の中となった。

国としてのマクロ的な方向付けとその決断を困難にしている社会背景が今の世にはある。
多くの国民は既得権の罠に陥り、国の方針に従うべき動機を持たない。

それでもなお、リーダーは求められる。
リーダーシップと実行すべきソルーションを。

<2012年1月7日>


「友愛」を第一義に持ってきても、人の世を変えることはできないし前に進むこともできない。
ましてや世界は救えない。

友愛は、この世界の流れに希望や賢察を与える概念であり尊重すべきものであるが、現実の不条理に対する反面的な性格のものであり、世の中を牽引するものではい。

<2012年4月16日>


失敗からの再出発

一時期、最近もときどき耳に入るが、リカバリーの機会が少ないといわれる今の社会状況に対し、失敗した人にもチャンスを与えることは必要であり、失敗を恐れずにチャレンジすることが大事だ、という話。
賛成なのであるが...

高度経済成長期には、今とは違う状況があったようだ。
失敗しても挽回のチャンスは色々あったし、失敗に対しおおらかで、失敗自体が当たり前でさえあった。
また、発展段階での失敗は必然であり、それは挽回可能な投資であった。
そして、失敗が成長の源となり、ダイナミックに世の中が展開した時代であった。
全部がそうでないとしても、今と比べると当って砕けろ的な雰囲気は多分にあったと思う。

しかし、高度成長の時代から様変わりし、バブルがはじけたころには、失敗が命取りな時代へと移り変わっていた。
それは、失敗しないように慎重にものごとを進めることに重点を置く、管理社会の訪れであった。
それがまるでブームのように、社会全体へ広がっていった。

今、問われるべきは、失敗からの再生を如何に推進するかという点よりも、再生を妨げる状況を作り出している行き過ぎた管理社会を如何に改革できるかということなのではないか。

<2011年12月27日>


時代の変化

開国、近代化、戦争、高度成長、情報革命。
時間軸に対する変化の度合いはすさまじく、特に物質的、情報的な分野での発展は周りの景色と生活スタイルをがらりと変えた。

次の世代はどうなるのか。
構造不況にもがく現代、羅針盤は方向を教えてくれない。

重厚長大産業の衰退、メーカーの盛衰、ソフトウェアとサービス産業の隆盛、製造業の海外重視。
手元に経済産業省がまとめた「経済産業政策の課題と展望」があるが、このような展望には前提条件がつきものだ。
そして前提条件のうちその通りに行くのは、既に起こった未来の部分だけだ。

このままいくはずがないのに、このまま何もせずにいると、といった前提。
競争力のある技術革新がこれまでどおり起こるという前提。
海外の脅威を希望的観測で見る前提。

高齢化社会の到来による働き手の減少は明らかだが、数字に表れない海外勢との相対的なモチベーションの減少、活力の減少が考慮されているのか。

方向性を出して導くにしろ、飽食で肥大化した日本社会に如何にインセンティブを与えるのか?

<2012年4月18日>


産業人のジレンマ

日本のユーザーの欲する特異で細かな仕様、多様性、上質さ。
産業人は、これらの要求に答えることこそが成功の条件だとして、特徴的な機械やプロセスを作り上げてきた。

国内の消費が縮小し、輸入製品や輸入加工品の比率が増えてくる中、今求められているのは国際的な競争力だ。
国内のマーケットだけで生きてこられた会社も、庇護がなくなれば、次は我が身となる。

競争を勝ち抜くには、コアコンピテンスの差別化こそがカギになる。

コアは、原則という名のご都合主義で語られる枝葉末節の枠組みであってはならず、原理でなくてはならない。
形で入っても、そこに魂がなければ維持可能ではない。

自前主義の束縛からの解放とグローバルな中での自社技術の洗練。
改善に頼りすぎるのではなく革新を生み出せる体制。

はたして、産業人は新たな時代にどのような戦略で対処するのか?

<2012年5月30日>


自前主義

自分が携わる仕事の必要性を維持するために、あるいはその仕事を正当化するために、人は多くの不合理に手を染める。
しかも、それが半ば無意識であるからやっかいだ。

日本がこのような病に陥った背景として、日本をリードすべき大企業の構造問題から派生した閉塞環境が大きな影を落としている。
かつて差別化の手段として開発力や技術力を競ってきたその手法自体が、体のいい言い訳か都合のいい隠れ蓑になっている。

横並び思考の日本の会社は、景気が良くなったとき(前ではなく)に一斉に人を取り、景気が悪くなったとき(前ではなく)に社員数を抑制する。
景気には波があるが、見事にその波に逆行しているかのようだ。

そんな不合理が当たり前になっていた。

アンタッチャブル。
こだわりが技術を磨き、技術が品質を高め、品質が良ければ売れる。
それが原動力であった。

自信という慣性に惑わされ、聖域という名の船は海原をさまよう。

まるで品質至上主義とでも言うような、手段が目的と化すよじれ。
維持可能でなければ何にもならない。

グローバル化へ移行した社会において、旧態依然とした自前主義への固執が生み出したものは、ほんの少しの成功と多くのムダであった。
仕事を作るため仕事。
気がつけば敗者。

お金のムダ使いや生産プロセスのムダは指標化され見える化されてきた。
その一方で、自前の設計や品質管理に固執することが生み出すムダは指標化することが難しい。

見えるムダと見えないムダ。
必要なムダとイノベーション。

適切な指標とその制御に誤れば会社は滅ぶ。

<2012年6月18日>


希薄化

取り扱う情報量が増えると物事が希薄になるように、人の関係も希薄化する。
その中で、いかに目的を遂行するか。

希薄化することは止めようもない。
そこに反発しても、あらがえない流れの中では制御などできない。

希薄化と同じくして、個人を取り巻く世界は否応もなく広がっていく。
世界が広がると新しい問題も発生する。

常に、未来は今の向こうにある。
世界が変わっても人が一生でできることの量が変わらないとすると、やるべきことの重さも変わらない。

我々の住む世界は結局、地球の表面に限られている。
その上での話だ。

できることをやるしかないわけだが、価値ある仕事は人が集まる場所ではなくその向こうにある。

<2012年8月23日>


間違った日本

TPPに賛成する産業界が、今度は原発廃止に反対する。
どろどろとした、清濁混合した、実と虚の駆け引き。

変わろうとするのかしないのか。
誰を、何を、信頼することができるのか。

それがこの世界の現実であることは承知だが、からみつく情念に抑えつけられ身動きできない姿は哀れだ。
そして自滅的だ。

国内業者同士の理念なき競争。

外国産品の価格破壊による見かけ価値の低下。
計画生産や保護規制と慢性的な余剰生産による有り難みの低下。

もったいないといいながら、大量の食料を廃棄する。
一粒残さずと教育されながら、見て見ぬふりをする。

農は工・商よりも上にあるという士農工商から続く詭弁。
尊敬されることのない現実における矛盾。

全部食べると食べすぎる。
食べ過ぎると苦しくなるし、太る。
だから、自分でやめたいところで終える。
結果残る。

これが飽食の時代の食べ方だと放言したのは30年程前のことだが、今の有様と世相を見るにつけ落胆せざるを得ない。

効率の改善と安全の名の下、本質を度外視してわずかな利益にむさぼりつく企業。

方向性の問題は確かにある。
規制する以外に手だてはない。

産業人は、産業人である前に、一人の個人としての信条を優先すべきだ。
また、産業人は、年をとってこそ自由であるべきだ。
そしてその自由は表現的であるべきだ。

そのために、社会で自立できる耐力を備えなければならない。
痛みを伴う改革を我慢する耐力がなければならない。

近年の産業界の変化の波は、準備のできていない若者に準備させるだけの余裕を企業から奪った。
一方、将来における自由と大義を取り戻すために、若者は耐え、忍び、力を付け、学び、考え、力を蓄えることを要求されている。

日本人として日本に依存するのは本筋に違いないが、過度な要求は国にとってのくさびとなる。
グローバル化は、まだ端緒についたばかりだ。

現代に依存しすぎている人たちは、国は動くべきではないと思うかもしれない。
それでも国は、今でも、少しずつであるが動き続けていて、動き続ける。

日本人が何であったかを問うつもりはない。
はっきりしているのは、日本人が進む道は、日本人としての道ということだ。

<2012年9月26日>


進む道

高齢世代の驕り、中年世代の遠慮、若年世代の空虚。

ダイナミズムのゆらぎは経験したことのないアンバランスな世界を生み出した。
敗戦、復興、経済大国、グローバリゼーション。
時代の変化は、実は急速に進んだわけではない。
それはジェネレーションのうねりと同調している。

高齢世代は昔を懐かしむ。
国や会社の将来、哲学や人生論などを侃々諤々と夜が更けるのも忘れて語り合ったという思い出。
先進各国に追いつけ追い越せの意気込みの中、みんながむしゃらに朝早くから夜遅くまで働いた、そして働くことが結果に結びついたエネルギーにあふれたそんな時代だった。

中年世代は悲愴に嘆く。
日本が高度経済発展を遂げる様を身近に感じながら成長し、勢いのままに社会へ出てバブルを経験する。
グローバル化が迫る中、先行した優位性は徐々に失われ後発国からのプレッシャーと構造不況にさらされる。

若年世代は行儀よく待つ。
古き良き時代や栄光と挫折の時代は過去のものであり、物心がついた頃には日本は出来上がっていた。
大義はなく、関心は身の回りにある。
予定される将来の苦難を感じながらも、流れに流される。

自分たちだけの発展を謳歌できたのは過去の話だ。
世界人口の増大、資源や食糧の問題、地域紛争、核問題、金融、グローバリゼーション、情報テクノロジー。
格差の是正と相まって世界は新たな秩序を模索する。

日本はこれから発展する国ではない。
いびつな人口構成は今後しばらく解消されることはない。

一人の人間が大人になるのに要する時間が過去と比べ長くなってしまった。
大人になったときにはもう手遅れだったというようなことが、今後、多くの子供たちに起こりうる。

過去と同じようには生きられない。
なのに日本は成熟した時代をいかに生きるかを知らない。

今の政治の混乱には、世代間のアンバランスが大きく影を落としている。
我々には、この現実と対峙して未来を切り開いていくことが求められる。

懐かしんでも仕方がない。
嘆いても踏ん張るしかない。
流されても進む道を見つけなければならない。

我々は知っている。
日本が奇跡の発展を遂げたことを。

忘れてはいないか?
物まねだといわれながらもなりふり構わずモノ作りに励んだことを。
海外から多くのことを学んだ謙虚さを。

我々は立派な国民であったわけではない。
豊かになり先進国の仲間入りをしたが、立派な国民になったわけでもない。

我々は未だ不十分であり、すべきことはまだある。
我々は日本に生きると同時に世界に生きている。

現状に満足させられると推進力は落ちる。
目標を失わされると人はおとなしくなる。
逆に望みが叶うと信じれば鍛錬にも耐えられる。
失くしたものがそこにあると確信できれば、探すことにも身が入る。

かってそうであったように、驕らず、足るを知り、より良い世界を目指す。
それこそが普遍的なテーマであるに違いない。

若さとは、変化に対応できるという自信のことだ。
経験と葛藤は人に道筋を与える。

残念ながら自分の力だけでは自分を律することができないのも現実。
厳しい中に自らを放り込むしかない。

時代のダイナミズムの罠から逃れるには、個人が、違和感に向かい合いながらそれぞれの経験値を高めるしかない。
経験値が上がらなければ潜在力も引き出せない。

困難において経験を積み、悩み、自分の頭で考え抜き、磨き、血肉とする。
そして訪れる未来に立ち向かい、表現する。

ITの進化、グローバル化に伴い、これからの世代のチャンスは今よりも増える。
未来は、まだ来ていないから未来。

<2012年9月14日>


歩み

例えば、潜在的な能力が高くても、経験や訓練を積まなければ特定の分野で力を発揮することはできない。
勝敗は結果や成果で決まり、それが社会におけるステップとなる。

何を見つけ何にがんばるか。

一本線を通してそれに注力すれば、その分野で成果を生む。
その意味で、亜流とは正道の一つであり主流におもねる必要はない。

歪みがもやとなり見えにくいが、決意は伏線であり、積み重ねが道を拓く鍵となる。

<2012年10月22日>


終焉

皮肉なことではあるが、ときがたてば世代間の歪みは自然に解消される。
老齢世代の強制退場によって。

同時に、復興の証人を失い、後ろだてを失った状態で、日本丸は世界の海原を航海することになる。
破壊の後には創造があるものだが、確かに破壊的変革は今は無理なのかもしれない。

世代のフェードアウトはじっと見つめないと見えないような潮流の変化として現れ、新しい現実は静かに幕を開ける。

成熟からの下り坂を、貯蓄を消費するような惰性の時代を経ることでエネルギーは分散しつくしている。
新しい芽はどこに現れどのように育つのか?

潜在力の一つとして、日本人が持つバラエティーさに注目したい。
日本人は元来、新しさや多様性を受け入れ取り込む性質を持っている。

新しさや創造性を発揮するという点も、過去において証明されている。
決して恵まれているとは言えない環境において。

旧態依然とした束縛を解いてあげれば、打開の芽はいたるところに芽吹くのではないか。

<2012年10月24日>


維持

公の組織はどうしてこんなに大きくなってしまったのか。
階層的に、細分化され。

本来の目的は何なのか。

維持するために多大なコストが発生する。
変化に対応できない。
この時代に。。。

こんな組織は改善では治らない。
老人には直せない。

新しい組織の在り方は、新鮮な発想と新しい技術がベースにならないといけない。

<2012年11月5日>


コメ聖域論

コメは日本人にとって特別だという話を聞いたことがあるような気がするが、もはや不良債権では?

経済衰退期において不良債権問題が発生したとき、最終的な解決は不良債権処理に頼るしかなかった。

デフレが貨幣現象だとしても、背景にはマインドがある。
国民が期待を形成できなければデフレは解消されない。

つまり、不良債権であるコメの問題を解決しなければマインドの改善はなされないのでは?


予想図

世界の中心

個人の観点からいえば、世界の中心は当然その個人となる。
つまり、その人の生きる道が世界の中心に常にある。

国のレベルで考えると、ずっと昔は世界に中心といえるものはなかった。
世界の中心といえる大国の始まりは、産業革命により時代を一つ進めたイギリスにあると思う。

時代が下ってここ最近は、ずっとアメリカが中心だ。
では未来は。

アメリカが当分続くだろう。
そして、中国が台頭する。

人口でやがて世界一になるインドは、世界の中心には決してならないだろう。
この国には、多様な宗教と文化によるくさびがあり、それはインド人であることと切っても切れない関係にある。

<2011年12月29日>


アメリカの歪

大国アメリカがその力をしばらく持続しつづけるのは確かだ。
アメリカには優れた人材の育成とその人材を活かす社会システムが備わっており、創造的な開発力や競争力において高いポテンシャルを維持できる。

しかし、今のアメリカの社会は、二極化の拡大に伴う歪がいたるところで目につき、自由主義社会システムの不完全性が露呈されてきている。
行き詰まるところまで悪化しそうな今の状況からは、システムそのものの存亡が問われる段階にきているように思える。
その歪は、選挙、肥満、格差、成金、モラル、金融、国際社会への関与、犯罪において顕著だ。

アメリカの多様性は、停滞を排除し継続的に革新を生むためのエネルギー源となっている。
問題が発生する一方でその問題に対処するための新しい試みが行われ、新たな創造を導く。
イノベーションに勝ることが世界をリードすることだと知っている。

但し、平等の観点からみれば、明らかに社会システムの欠陥は行き過ぎであり放置すべきものではない。
世界は、新しい様式を欲している。
変化が遅れれば遅れるほど、歪は蓄積し、反動は大きくなる。

アメリカ人は世界中をアメリカ人にしたいらしい。
アメリカンナショナリズムは、現時点では世界のバランスにとってプラスになるのかもしれない。
しかしどこかの時点で、アメリカが築きあげてきた近代文明はバランス限界点に達する。

<2012年1月7日>


ところで現代アメリカの行き着いた一つの現象がトランプ政権だ。
ただ、これは途中にすぎない。

<2017年6月17日>


時代を創る力

時代を創る力とは、すなわち人の力だ。

人は、生きることの表現として、地球からエネルギーを吸収し形を変えて社会に放出する。
身の回りのプラスチックや金属でできた物質も、電気も、文化も、科学も、哲学も、人が創りだした。
既にあるものの上に、既にあるものを昇華しながら、新しいものを創出していく。

マクロ的にみると、創出のエネルギーの方向性は場所と時間により異なってくる。
過渡期であれば変化に向けて、泰平ならば文化的な充実に向けて。

創出エネルギーは、人と人との関わりにおいて相互作用を伴い増幅される。
この意味で、情報化社会の進展により、人はエネルギーの増幅器を手に入れたのかもしれない。

創出エネルギーは、いわば意志のエネルギーであり、従って基本的に制御することはできない。
運用を誤れば、自らを滅ぼしさえもする。

<2012年1月7日>


情報の時代

情報ツールにかかわる物質的/ハード的な進化は既にある程度のレベルまで来ている。
例えば、薄型テレビのサイズとスマートフォンのサイズ。
これ以上に大きくなっても使いづらいし、小さくなっても読めないし操作できない。

一方、まだまだ進化するのはソフトの方だ。
特に情報の管理に関しては、これから予想もできないような進展があるはずだ。

方向性はある。
それは、望まれていることを現実化するという方向であり、平和で平等な社会を実現するという方向だ。

世の中、間違った情報や嘘の情報が氾濫するが、正しい情報を入手しやすくなる。
旧社会システムでは取り扱うことができなかった膨大な情報も管理できるようになり、絶対的な基準や評価だけでなく相対的な視点が取り入れられる。
データの共有化と管理が進み、無駄な規制や法の抜け道が是正される。

しばらくは使う方の人間がITの進化に追随できずその進化さえ阻害するかもしれないが、人は少しずつ入れ替わり、いずれ次の時代が訪れる。

<2012年5月26日>


表現の自由

デリケートな話題だ。
争点としていろいろなところで取り上げられる。

ただ、我々日本人を育んできた思想の背景からいえば、相手に敬意を払わないような表現は慎まれるべきだ。
これは、それを興味を持って受け入れる受信者側の問題でもある。
表現に面白おかしく反応しそれに共感を求めまた共感する。

国や宗教を跨いだ表現については、背景となる思想の対立という大きな問題を孕む。
一方が自分の視点から正当化するべきものではない。
この点において、西洋の思想は根本的欠陥を有しているように思えてならない。

この問題は、つまり、国力に依存して発生し、国力によって収束するようなところがある。
勝ったほうが正義。
支持されたほうが勝つ。
まだまだ平和が訪れることはない。

<2015年1月12日>


不均衡の是正

不公平、不平等、不条理。
お金の貧富については今後も変わらず有り続けるだろうが、ルールと自由のはざまで生じたこれらの不均衡、アンバランスは是正されていくはずだ。

例えば、一方的であったものがインターラクティブになっていき、過保護に歪んだシステムが見直される。

但し、変化においては一時的な過密と集中は必須であり、その理解と分散への努力は我々の義務のようなものだ。
備えあれば憂いなし。

<2012年5月26日>


世界のバランス

しかし、現時点においていえば、国と国の間は平等でなければならないという理想主義は成り立たない。
国どおしの交渉において、全ての国は自国が有利になるように交渉しようとする。

その結果、国力に勝る国が有利性を保持できるように世界はバランスされようとする。
そして、相対的国力の差が、国民の豊かさの差に直結する。

だから、日本は総体としての強さを維持しなければならない。
国力に勝ることが引いて国内の利益を維持できるという根本原理をないがしろにしてはならない。

理想主義に毒され、この世に存在し得ない理想に溺れるのは弱さ以外の何物でもない。
理想は、現実を見つめてこそ見えてくる。

<2013年8月25日>

国の境界においてその境界線は摩擦しながら潤滑し、境界線の内側を保護する役目をする。
だから当然のように、熱するのが摂理である境界線の内と外では世界が異なっている。
人間だもの、不条理は存在する。
歴史認識を正しく持つことが難しいのは、歴史は個人が体験し個人が持つものであり、個人の価値観に結びついているからだ。
国家が国家の価値観に基づき一律の認識を表明しても、それは潤滑材の役目を果たすためであって道理として潤滑しなければならない媒体は存続する。

<2014年11月25日>


ブラックベリーシンドローム

ネットを利用したコミュニケーションの頻度が増えると、多分、効率が上がるのだろうが間違いの量とその訂正(リカバリー)に費やす時間も増加する。
これは、コミュニケーションにより相互理解を深める過程における一過性のものなのだろうか?

情報ツールの発展は、個人が取り扱える量の増大と速度の向上をもたらしたが、その人の労働時間を短縮させたわけではない。
むしろ過渡期において過当競争による利益なき繁忙を招いた。

今、コミュニケーションは昼、夜、休日の区別なく要求されようとしている。
ブラックベリーシンドロームともいうべきこの事態は、どんな形へ終息していくのだろう。

<2011年12月20日>


間違った進化

そのときはそれが正しいと思ったことが、後の世に愚かなことだと判明する。
当時認められなかったことや人が、後の世に見直される。

後の世になってなぜ判断や評価が改まったのか。
外部からの圧力、民主化と社会制度変革、教育や正しい情報の浸透などが挙げられるのだろうが、背景に産業技術の進歩、特に情報技術の進歩、それと平和がある。

技術が進歩するということは、一方で大量破壊兵器に代表されるような危うさの拡大という側面もある。
進歩の初期段階においては、技術や情報が統制され支配に利用されるという過程もある。

情報通信が発達した今の時代、人は間違いを犯しにくくなったか?
そんな気はしない。
人は間違いを犯すものであり、情報自体は主体である人に従属するものだ。
情報はあくまで情報だ。

ただ、我々は以前よりも、何が愚かなことかを知っている。
情報は教訓や抑制力になる。
未来のリスクに対しても、グローバルな視点から推測できるようになった。

過去において盲信されてきたようなことが、開かれた現代ではほとんど信じられることはない。
ただそれも、スモールワールドに限定されてのことだ。

支配。
支配の強さは自由な精神に対する束縛の度合で表すことができる。
支配は発展途上の民族や国において顕著に現れる。

国同士について言えば、未だ平和と安全は確立されていない。
他国を認めることは自国の否定につながり、ときに国家間の紛争となる。

背景には利権が絡む。
相容れない主張の中でバランスは保たれようとする。

人間は地球を醜く変えてしまった、という主題に対し、後の人はどのように判断するのだろう。

自らを滅ぼす威力を秘めた武力を創造してしまった人類は、その行使を未来永劫に抑制することができるのか?

宗教。
怒れる神は、信仰に厚い一部の人間を除いて、愚かな人間をこの世から排除しようとするのか?
人を狂気に変え戦争に駆り立てるのも神の思惑なのか?

歴史からくる歪みを、怨念と復讐の連鎖を解消できるのか?

人口増加と食糧を始めとする資源の問題に人類はいかに対処するのか?

人は間違った進化を辿ったのか?

資本主義やそれをベースとする経済至上主義といったものが多くの矛盾や格差、自然破壊を含む地球規模の激変を生みだす背景となってきた。
巨大な潮流の勢いはピークを越えたかもしれないが、伴ってきた犠牲は想像を絶する。

我先に助かりたいという動物の本性は、一度流れにのまれると留まるところを知らない。

人間の本質が動物的である以上、我々は理性をもって制御するしかない。
しかし今の世の中を支配しているシステムを否定することは自らの既得権をも否定することだ。
個人レベルでの漠然とした危機感があるとしても、多くはその違和感に積極的な関与を試みることはない。

新しいシステムなど誰も確信することはできず、課題は常に先送りされる。
人は痛みを経験しない限り学ばないという経験則において、潮流を変えるきっかけは見えてこない。

我々が辿った歩みは、決して正しい道であったとは言えない。
但し、正しい道を選択することができたわけでもない。

人間は不完全なのだから、世の中は不完全なのだから。
我々は学び続けることが宿命づけられている。

<2012年9月23日>


滅びゆく世界

人が入れ替わる以上、それは必滅。
新しい世界が継続的に生まれるということ、それのみが救いとなる。

地球という命は産業革命以降、大きな変革の波にさらされている。
新たな危機の到来は産業の発展と歩調を一にするものであり、その危機を救うのは、産業の発展を背景とした理性の啓蒙と拡大であることを歴史が語っている。

未だ地球は発展途上であり、各地で起こる紛争は潜んでいた危機の発露にすぎない。
潜在する危機をなくさない限り、本当の平和は訪れない。

そして、支配からの解放がどの程度のスピードで進められるかに、これからの未来が左右される。

産業が発展し、それが基盤となり生活に余裕が生まれる。
情報はよりグローバルに流通し、支配のための統制はより困難となってくる。

正しい情報と先入観の払拭。
新しい世代にしか歴史の歪を解消することはできない。

全人類の底上げ。
全人類が公平で普遍的な世界観を持つためにも、産業の発展は継続されなければならない。
個人レベルでの貢献は限られるとしても、方向性を持って世に関わることは我々にもできる。

我々は未知の危うい場所を歩んでいる。
ときに悪意が待ち受ける。

終末の訪れが早いか理性の浸透が早いか、地球の命運はいかに。

<2012年9月23日>


神は本当に死んだ

神は本当に死んだ。
サンタは生きているが。

未来の人は今の時代を振り返って、「すさまじい勢いで近代化したにもかかわらず、多くの人が神を信じていた時代」のように語ることになる。
多分、ずっと先の未来になるが。

しかし、サンタは生きているだろう、そうでなければ確かに面白くない。

神が死んでも、人が祈ること、祈るという行為自体は永遠に変わらない。
人はそういう生き物であり、祈ることは社会にとっても、人にとっても必要なことだ。

<2012年12月26日>


アジアの成長

身近にある外国。
アジアの発展は次に起こる未来。

アジアに物を売る。
それが次の日本の未来。

<2013年1月18日>